ルーマニア・ブルガリア大周遊17日間の旅行記
 <2012.10.16(火)~11.1(木) (株)ワールド航空サービス>

       ~旅行10日目・10月25日(木)  曇り後晴れ~





                                 No.17


 今日は旅行10日目で、シギショアラという高台の城郭都市みたいなところにあるホテルで朝を迎えました。
 前ページで一悶着があったホテルシギショアラですが、小生のホテルに対する評価を申し上げます。
 まず、部屋の面積ですが、十分とはいえませんが、スーツケースを置けるスペースはありましたので、
「まぁまぁ」です。次に、浴槽やシャワーなどの水回りですが、「お湯が濁っている」「また、一斉に使っているためか出が悪くなる」ことから、これも「まぁまぁ」ではないでしょうか。ベッドは前ページのようにシングルで、部屋からの景色は見られませんでした(無理に小さい窓をこじ開けませんでした)。
 従って、総合点は、高くはないと思いますが、古い街にある古いホテルですから、設備面などが近代的なホテルに劣っているのはやむを得ないのではないでしょうか?旧市街にあるホテルに泊まることに意義があり、その中では評価が高いホテルだと思います。

 さて、本日は、7時30分モーニングコール、同時刻に0階レストランで朝食、その後、9時にロービー集合です。ホテルから徒歩で時計塔やドラキュラの生家などシギショアラ旧市街を散策して、その後、バスでピエルタンに向かいます。ピエルタンで昼食、その後、ピエルタンの要塞教会を見学して、シギショアラに戻り、自由行動となっています。(嬉しい連泊です。)

 まず、朝食からご案内します。

    ご覧のようにパン、ゆで卵、ハム、ソーセージ、チーズとコーヒーなどの飲み物も揃っていましたが、野菜はトマトのみでした。
 味は「
ごくごく普通」となっています。

 朝食でお腹がふくれましたので、シギショアラの散策です。ここでシギショアラ(「シギショアラ歴史地区」という世界遺産)の勉強です。

 シギシアラがあるトランシルバニア地方は、11世紀にハンガリー領となり、12世紀から13世紀には歴代ハンガリー王の方針で、辺境の防衛を兼ねてドイツ系の職人や商人たちがこの地に入植していったのです。(誰から防衛するの?オスマントルコのようですね)彼らの出身地には、ザクセン地方(ドイツ?)だけでなくルクセンブルクやフランドルなども含まれていたが、ザクセン人(Sasi,サシ)と呼ばれていたといいます。
 シギショアラも1191年に彼らトランシルバニア・ザクセン人によって築かれた都市の一つだったのです。
 標高425㍍の小高い丘の上に築かれた防災は1241年のモンゴル帝国の侵攻を踏まえて順次増強され,14世紀にかけて見張り塔と防壁が整えられたのです。この見張り塔の建設などに責任を負ったのは商工業者のギルドで、
今も塔には当時のギルドの名前が冠されています。
 15世紀から16世紀にかけてシギショアラは絶頂期を迎えたが、オスマン朝の脅威にさらされた時期でもあったので、丘の下にあった教会の周囲にも防衛施設が整えられたのです。
 17世紀以降は、ペストの流行、3度の大火、洪水(1771年)、地震(1838年)と相次ぎ災害に見舞われ、人口の減少や建物の損壊を被ったのです。
 特に、1676年の大火は歴史的建築群を焼き尽くし、都市の約75%を焼失させたといいます。
 さらに、184年にギルドが特権を失ったことで都市の勢いがなくなったのです。
 その後、下町は商業地区、山の手は行政地区という棲み分けが行われようになったが、開発の中で防壁は取り壊され、山の手にあった
14基(地球の歩き方では15基)のギルド塔のうち、現存するのは9基となったそうです。

  そんな街の衰退の歴史を読みますと、悲しくなって栄枯盛衰という文字が浮かんできます。
 でも、世界文化遺産に指定されたのは、中世ドイツの建築様式と保存されている要塞の数が多く、保存状態が十分に良好であると評価されたことだといいますから喜ばしい限りです。
 
 ところで、上の記述を読めば「なぜ丘の上に街を造ったのか?」が分かりますが、何も知らないで実際にいってみますと「どうして、ここに城壁で囲まれた街があるのか?」不思議でなりませんでした。

 さて、その世界遺産にもなっている街の見どころですが、城塞都市の防衛機能を担った「防壁」と「見張り塔」、中世の景観を保持している「赤い屋根の民家群」だそうです。
 中でも、「時計塔」は、9基の見張り塔の一つですが、ひときわ目立つシギショアラのランドマークといっても良いと思います。

   街に出てみれば、「あれが時計塔だ!」とすぐ分かりますが、シギショアラ散策で最初に見た場所は時計塔ではありませんでした。
 では、どこを見学したのか?ですが、ホテルの前の道を左方向に歩き始めました。
 その様子を下の写真でご覧いただきます。
 なお、時計塔については、後ほど説明したいと思います。



 <ホテル近くの小さな広場>

 <製靴職人の塔>
 
 <ローマカトリック教会>

 <ブリキ職人の塔>

 <どこを見ても絵になる>

  <散策途中で>

 上の写真を説明できれば「嬉しい!」のですが・・
 上段の
製靴職人の塔」と「ブリキ職人の塔」は、9つの塔うちの二つですが、後ほど説明したいと思います。
 「製靴職人の塔」と「ブリキ職人の塔」以外は分からないので「どこを見ても絵になる」「散策途中で」などと言葉でごまかすな!とお叱りを頂戴しそうですが、ご容赦いただきたいと思います。

 なお、9つの塔とは、時計塔のほかに
 ■ ブリキ職人の塔(Turnul Cositorilor)
 ■ 皮なめし職人の塔(Turunl Tabacarilor)
 ■ 綱職人の塔(Turunl Franghierilor)
 ■ 精肉業者の塔(Turnul Macelarilor)
 ■ 毛皮職人の塔(Turunl Cojocarilor)
 ■ 仕立業者の塔(Turunl Croitorilor)
 ■ 製靴職人の塔(Turunl Cizmarilor)
 ■ 鍛冶職人の塔(Turunl Fierarilor)
 の8つだそうです。

 この塔の名前を見ますと、商工業者が自ら街を守ろうとしたことがよく分かりますネ!

 シギショアラの写真をいくつか載せましたが、本当に美しい街です!
 小高い丘にある美しい旧市街の面積は、目算で南北400㍍、東西200㍍の80,000㎡といったところでしょうか?
 でも、この小さい街をどのように歩いたのか?まったく分からないのです。
 写真の順番?上段の左<ホテル近くの小さな広場>から
<製靴職人の塔><ローマカトリック教会>を見て、次に、下段の <ブリキ職人の塔>という順番です。

 ここで写真で確認できた「製靴職人の塔」について説明しておきます。
 この塔は、城壁の
北西部分に建つ6角形の見張り塔で、1521年の建築ですが、その後、一部が損傷して、再建し、1676年には大火で焼失し、1681年に再建した見張り塔だそうです。

 また、「ブリキ職人の塔」は、城壁の西側にある見張り塔で、基底部分は長方形、そこに五角形や八角形の階が載る形で構成されているそうです。
 高さ25㍍といいますから、目立つはずですが・・・
 1704年の戦いでは多くの銃弾が撃ち込まれ、漆喰の壁面には、それら銃痕が今も残っているといいますが、そんなこと知らなかったな!

 でも、この二つの塔のことを調べたお陰で、歩いた方向が大分わかってきました。
 ホテルシギショアラは、街の中心部ですから、<ホテル近くの小さな広場>
が左方向(北)になっていて、その先をさらに左方向(西)に曲がったところに<製靴職人の塔><ブリキ職人の塔>がある!ということですね。
 でも、こんな作業をしていますと話が前に進みませんので、その後の街の写真をいくつか掲載して、次に訪問した「時計塔」と時計塔のテラスから見えた美しい街の様子をご覧いただきます。


<共産党政権時代の国民車>

<地元のお婆さんを見送る!> 

 <人間の目のような屋根> 

 左の写真は、共産党時代の車だそうですから、珍しいものかもしれません。
 真ん中の写真は、街を散策していましたら、地元のお婆さんが歩いていて、皆さん、思わず駆け寄って声をかけていました。
 ツアー仲間の女性軍がこのお婆さんと会話する様子を撮影した写真もありますが、プライバシーもありますので、掲載できません。
 地元の方は、とても気さくで素朴な方が多く、こういう経験が旅を何倍にも楽しくするのだと思います。
 三枚目は、人間の目のような形の屋根ですが、街のあちこちにありました。監視?それとも屋根裏部屋の明かり取りでしょうか?

 こうして、散策しているうちに時計塔がある小さな広場には、9時40分頃につきました。こ近くには「ヴラド・ドラクルの家」がありますので、この街のシンボルともいえる「時計塔」とともにご覧いただきたいと思います。
 また、時計塔のテラスから見えた
「赤い屋根が連なる
美しい街」の様子も後ほど掲載します。


 <CASA VLAD DRACUL TERASA>

  <街のシンボル時計塔>

   <時計塔の前の広場>


 「ヴラド・ドラクルの家」
は、現在、カサ・ヴラド・ドラクル(Casa Vlad Dracur)という名のレストランになっていて、私達もこのレストランで今日の夕食をいただく予定です。
 左上の写真には「CASA VLAD DRACUL TERASA」という大きな表札がかかっていますが、こちらは私邸の入口なのでしょうか?
 下の写真は、通路を右方向に歩きますと、見えてくる広場の光景ですが、左端が「ヴラド・ドラクルの家」の黄色の壁で、こちらがレストランの入口になっています。
 右の写真は、広場から見た「時計塔」ですが、右側に写っている建物のうち、手前の薄茶色の建物が大砲や槍などが展示されているという
「中世武器博物館」です。

 このあとは、時計塔の中に入って階段を登って
テラスから「赤い屋根が連なる美しい街」を見学します。テラスの場所?時計塔の尖塔(屋根)の下に柱と黒い空間が見えていますが、そこがテラスです。

 おっと、その前に時計塔の勉強です。

 時計塔(Turnul cu Ceas)は事件獲得の記念として14世紀半ばに建造されました。塔の屋根に4つの小塔が見えています(2つしか見えない?)が、裁判の自治権を象徴するものです。現在の建物は、1676年の大火後に再建されたもので、1894年には屋根の大規模な吹き替え工事も行われ、現在見られる色鮮やかなタイルが貼られました。

 17世紀につくられた「からくり時計」が今も動いていて,時間が来ると、機械仕掛けの人形が出てきて時を知らせるようになっています。
 城塞内に面している時計盤と下町を向いている時計盤とでは、出てくる人形が異なっています。前者は、平和、正義、法、昼夜などを象徴する人物になっており、後者は月曜に対応するディアーナ、火曜に対するマールスなど1週間を表すローマ神話の神々になっています。

 また、時計塔の内部は、1899年に設置された
「歴史博物館」になっていて、古代ローマ時代の生活用品や家具、手術道具など様々な物品を展示しています。

 こうした内容の時計塔の中ですが、歴史博物館の写真が残っていませんでしたので、テラスから見えたシギショアラの美しい街並を掲載します。

   


 シギショアラは、美しい街ですね!右の写真に写っている教会は,修道院教会でしょうか?
 この2枚以外に面白い光景が写っていましたので、ご覧ください。

 


 テラスには、東京への方向を示す矢印と8890㎞という距離の表示がありました。
 また、右の写真のように時計塔付近には学校があるのでしょうね!子供たちの大きな歓声が聞こえてきました。
 10時10分くらいに時計塔の見学が終わりますと、次は、この街を歩いていますと、ホテルの前を通ってお土産屋を見ながら
「屋根付きの木造階段」を上って行く「山上教会」に向かいました。
 山上教会(Biserica din Deal)は、城壁の南側(ホテル前の通路を右方向)に位置していて、現在はドイツ語学校になっている山上学校が隣にあります。

 山上教会への登り口ともいえる右写真の屋根付き木造階段(写真は登り切ったところ)は、1642年に出来た当時は300段だったのですが、現在は175段になっています。
 冬場に礼拝や通学のために丘に登る人々を考慮してこの階段を造ったといいますから、雪よけでしょうか?

 
 階段を登り切りますと、1345年に建立、1525年完成の山上教会がありました。この教会は、トランシルヴァニア地方のゴシック建築の代表的なものと評価されていて、建築当初のカトリック聖堂から1547年にルーテル派の教会堂になったそうです。


 <山上教会の前>

 <山上教会>

 
 などといってますが、記述している本人が「ルーテル派」の意味がよくわかりません。内部には、14世紀から15世紀の美しい壁画などが残っているそうですが、残念ながら中には入りませんでした。
 ところで、左上の写真ですが、右側の建物が山上教会で、樹木に隠れている建物は何だと思いますか?
 この建物が、前に申し上げた9つの塔のうちの1つである
「綱(つな)職人の塔」です。
 この塔は、13世紀に建造されたシギショアラで最古の部類に属する塔で、保存状態の良さが評価されています。
 また、現在は教会の共同墓地の管理人の住居としても使われているそうです。


 <黄葉が広がる教会の横道>
 
 <屋根付きの木造階段の外観>


 本当に美しい光景ですね。思わず、カメラの前でポーズを決めたくなります。
 このあとは、ホテルに戻ってバスで
「ピエルタンの要塞教会」に向かいます。
 その様子は、次ページに掲載いたします。






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