花のベネルクス物語15日間の旅行記
 <2012. 4.11(水)~ 4.25(水) (株)ユーラシア旅行社>

        ~4月17日(火)旅行7日目  晴れ時々くもり~   
 





                                No.12


 まず、「ルクセンブルクの朝」からお伝えします。
 昨日申し上げたように、このホテル「なかなかのもの!」です。
 「ベッドがあまりにも巨大で、スーツケースの置き場に困ることも!」というコメントがありますが、「すべて良好」という評価で文句なしです。

 
   <巨大なベッド>

   <品の良い朝食>

 朝食ですが、「今までで一番良かった」というメモが残っていました。それでも「同じ卵でも日本のものとは味が違う、日本の食べ物がうまいネ!」などと贅沢をいってます。
 などと食べ物のことを気にしていましたら、肝心な本日の予定を言い忘れるところでした。

 本日は、6時から2Fレストランで朝食、バゲージ8時00分、出発が8時30分ですが、その後、午前中はアドルブ橋やノートルダム寺院などのルクセンブルク市内観光です。昼食の場所が何処なのか不明ですが、昼食後は、オランダのマーストリヒトに向かうことになっています。


 さて、午前中のルクセンブルク市内観光ですが、予定通り、8時30分にバスに乗って出発しました。
 まず、旧市街の入口になっている
憲法広場に向かいましたが、憲法広場に到着しますと「わがまま歩き」などで紹介されている美しい渓谷の光景が私達を待っていました。
 広場に到着する前にバスから見えた新市街地の面白い建物と、広場から見えた「
アドルフ橋」の光景をご覧ください。


  <アコーデオンのような建物の正体は?>

   <渓谷に栄えるアドルフ橋>

 憲法広場に到着したのは、8時50分ぐらいでしたが、私達は、ここから見える渓谷(ベトリュス渓谷)の美しさに圧倒されてしまいました。
 アドルフ橋は、旧市街の外郭の通りと新市街に延びる通り(写真左方向)を結ぶ大きな橋で、1900年から1903に架けられました。高さ46m、長さ85mで、建設当時は世界最大の石造りのアーチといわれました。
 そして、新市街の方向を望みますと、大きな青い塔をはじめとした建物群が見えますが、この建物は、「欧州投資銀行」のようです。
 また、この広場の見どころは、もう一つあって、それは第一次世界大戦の「
慰霊塔」が建っていることです。


  <欧州投資銀行>

   <第一次世界大戦の慰霊塔>

 ルクセンブルクは、スイスと同様にヨーロッパの金融センターになっていて、また、一人当たりのGNPがスイスやリヒテンシュタインなどとともにいつもベスト3に入ってる裕福な国だ!といいますから驚きですネ。

 さて、憲法広場からは
ノートルダム大聖堂に向かいましたが、二カ所の入口があるようで、私達が入った入口は、聖母マリアが奉ってある憲法広場側でした。
 この大聖堂は、イエズス会修道士jean du Blocqによって後期ゴシック様式で1613年に建立され、後にルネサンス様式が加わった建物です。
 先代大公とベルギー王女の結婚式が行われたように、国の儀式はこの聖堂でとり行われているそうです。



  <ノートルダム大聖堂>

  <ノートルダム大聖堂の入口>

 「中に入りますと、司祭(日本に長い間いたことがある)のVTRが上映中。」というTさんのメモが残っていますが、小生の記憶にあるのは、美しいステンドグラスやマリア様の絵画などでした。

    

 中の見学時間は15分間ぐらいでしたので、慌ただしいものでしたが、「どこからでもよく見える3つの尖塔の気品に満ちた姿」が、この大聖堂の特徴ですから、後ほど、その様子をご覧頂きたいと思います。

 中の見学が終わりますと、私達は、もう一つの入口(ノートルダム通り側)から外に出ましたが、そこは、黄色の建物群と女性の銅像がある広場みたいな場所になっていました。
 帰国してから旗がひらめく黄色の建物は何だろうか?と懸命に調べたのですが、どうもよく分かりませんでした。
 それでも、小生なりの考えをまとめますと、小生が撮影した表札の文字や警察官による警備、そしてネット情報を総合しますと、この広場付近は、ルクセンブルクの政府機関があるところだと判断しました。

 そこで、まず、ノートルダム通り側から見た大聖堂の様子をご覧ください。
 こちら側からの光景が先ほど申し上げた「気品に満ちた3つの尖塔」を端的に表していると思います。


   <ノートルダム通り側の入口>
  <中央の建物がノートルダム大聖堂>

  <近くに咲いていた小手毬?>

 ルクセンブルクの政府機関の話ですが、右上の写真の大聖堂を挟んで左右に建っている建物が日本でいうところの「官庁街」のようです。
 もしかしたら、右側の建物が「外務省」かも知れません。
 左の建物?どのような省庁が入っている建物なのか分かりませんが、中央省庁のようです。
 そして、右上の写真では確認出来ませんが、大聖堂と旗が立っている3階建ての建物との間には、もう一つ建物があり、その建物が日本流にいえば「首相官邸」のようです。
 その証拠となると思われる写真と首相官邸の写真をご覧ください。



  <警備する警察官>

   <首相官邸の看板>
 右上の看板の文字は、「PRESIDENCE DU GOUVERNTMENT」と「MINISTERE D’ETAT」となっています。 この文字はフランスの語のようで、その意味は素直に訳しますと、「政府の大統領職」と「状態の省」ですが、ルクセンブルクに大統領職はありませんので、この文字の意味は「首相」とその活動を支える「省」なのではないかと勝手に解釈したのです。
  <この小さな建物が首相官邸> 



  <10世紀を感じさせる通り> 
 さて、ここからは10世紀の歴史を感じさせる通りを歩きながら「ボックの砲台」に向かいました。
 ボックの砲台付近は、断崖絶壁を見下ろすような高台の地形になっていて、私達は、14世紀から15世紀にかけて造られたという「環状城壁」の跡に立っているのでしょうか?
「グルント地区」といわれる低地の美しい旧市街を眺めながら感嘆の声を発していました。「何と美しいのだろう!」と。 

 というような小生の駄文は邪魔ですね!世界遺産にもなっているグルント地区とボックの砲台の写真をご覧ください。


  <美しいグルント地区>

   <悠久の流れアルゼット川>

  <丸い岩山が「ボックの砲台」>

   <女性刑務所の聖ジャン教会>

 この後、私達は、旧市街とボックをつなぐ橋(左下写真の茶色のアーチ)を通ってボックの砲台に向かいました。
 963年にアルデンヌ伯ジークフリードという人が、このボックフェルゼンと呼ばれる岩山に城塞を築いたのがルクセンブルクという街の始まりだというのですから、歴史的な砲台なのですが、それよりも、ここから見える景色の素晴らしさを強調したいものです。

 さて、写真では見にくいのですが、崖に穴がくり抜かれ迷路のような地下要塞(18世紀にオーストリアの兵士によって造られた)になっているという話でしたので、私達は実際に中をを覗いてみることにしました。
 中には、大きな通路以外に細い通路がいくつか伸びていて、ガイドがいなければ迷子になる心配があったかも知れませんね。
 そんなことより、大砲が再現されていて驚いてしまいました。



  <ボックから見た橋>

   <ボック砲台の大砲>

 ボック砲台の見学が終わりますと、大公宮殿やギヨーム2世広場に向かい、その後は、ダルム広場で自由散策です。
 
大公宮殿は、「1418年に建てられ、市庁舎として使われていた建物で、火災のために1573年に再建。(わがまま歩き)」した建物です。そして、「1890年にギヨーム3世が亡くなってから現大公ナッソウ家の居城となり、いまは公的な行事だけに使われている。」といいます。

 また、
ギヨーム2世広場は、「オランダ王で、ルクセンブルク大公(1840~49年)でもあったギヨーム(ウィレム)2世の名がつく広場。ネオ・クラシックの市庁舎が立ち、ア(ダ)ルム広場とは好対照の静かなたたずまいだ。ギヨームがルクセンブルクの自治権とその統治組織を認めたことに感謝してルクセンブルクは1884年、彼の騎馬像を建てた。」そうです。


   <大公宮殿>

  <宮殿入口には近衛兵が!>

  <ギヨーム2世広場の騎馬像>
 お前の話は堅苦しくて、つまらない!記
念写真などもない!」という声が聞こえそう
ですネ。
 騎馬像前で「にっこり」微笑む写真がある
にはあるのですが、この旅行で親しくなった
TさんやOさんの顔が「ばっちり!」写って
いますので、誠に残念ですが、掲載できない
のです。


 これでルクセンブルク市内観光が終了です。
 この後は、昼食ですが、ベルギーに戻ってワロン地方の代表都市といわれる
「リエージュ」でいただく予定です。
 10時55分に広場(ダルム広場)集合というメモが残っていますので、11時ぐらいに出発したと思うのですが、ルクセンブルクからリエージュまでは直線でも100キロメートル以上ありますので2時間ぐらいはかかるのではないでしょうか?
 休憩なしで直行かと思いましたら、ガソリンスタンドでトイレ休憩がありました。その様子などは次ページをご覧ください。





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