<Portugal>
  
 連泊で巡るポルトガルの美しい町
や村12日間の旅

 <2013.3.5(火)~3.16(木)・ユーラシア旅行社>

    ~3月11日(月)旅行7日目     曇り時々晴れ~ 






                                  No.13


  ポルトガルの文化の中心地「コインブラ」2

 鉄の門をくぐりますと、1308年設置という旧大学が大きな広場(中庭?)のようなところの前に広がっていました。


  <ラテン回廊と時計塔>

   <鉄の門とラテン回廊>

 上の写真をよく見ますと、右側の写真に鉄の門が見えています。そして、左側の写真は、その左方向になります。
 このうち、細長く高い建物、これが学生たちがカブラ(山羊)と呼ぶ18世紀建造の
「時計塔」で、その右側の階段が見えている建物が「ラテン回廊」です。
 かってラテン回廊では、ラテン語を話すことが義務づけらていたことからその名がついたそうです。
 ラテン回廊からは、学位授与の儀式などに使われていた
「帽子の間」に入ることができます。
 そして、時計塔の左奥の建物は、アズレージョの内部装飾や祭壇などが見どころとないっている16世紀に建てられた
「サン・ミゲル礼拝堂」(教会)です。
 左上の写真には写っていませんが、その左側にある建物は、1724年(ジョアン5世)に建てられた
「ジョアニア図書館(旧図書館)」で、豪華な内部装飾や調度品が素晴らしく、また、蔵書は30万冊に及ぶということです。

 私たちは、まず、ブラジルからの金を使ったバロック様式の建物で、「虫も入れない、湿度、温度も調節している」というジョアニア図書館(撮影禁止)、礼拝堂(教会)、ラテン回廊から帽子の間、階段を下りながら旧市街へ、という順で見学しました。
 まず、礼拝堂と旧図書館の外観を撮影しましたので、ご覧ください。


  <サン・ミゲル礼拝堂(教会)> 

  <ジョアニア図書館(旧図書館)>

 このうち、私たちが建物の中を見学したのは、ジョアニア図書館と帽子の間ですが、最も素晴らしいという評価があるジョアニア図書館の撮影が禁止されていたのは残念でなりません。
 なお、礼拝堂も装飾の美しさが評価されていますが、その内部の撮影もしていませんでした。

 ということで、どの建物も外観ばかりで評価が高い内部の写真がない!という誠に情けない話でした。



  <ジョアン3世の像> 
 この旧大学の見学が終わりますと、再び中庭に戻り、大学が三度コインブラに戻されたときの王ジョアン3世(1502~1557)の像などを撮影しました。
 大学には、この像以外に1290年にコインブラ大学を設立したディニス1世像がありますが、設置場所が旧大学の中庭ではなく、バス停付近であったことから私たちは、この有名な像を見逃していたのです。

 旧大学の見学が終了しますと、昼食会場であるレストラン「ドン・ペドロ」に向かったのですが、旧大学からどこをどう歩いたのか?さっぱり分かりませんでした。
 でも、見学した後は、「Rua de Sao Joao」という通りを下って新カテドラルや国立マシャード・デ・カストロ美術館、旧カテドラルを眺めながらアルメディーナ門を通ってポルタジェン広場を目指して歩くコースが一般的なようです。
 ということで、どこなのか分からない場所や建物ですが、撮影したものをご覧ください。



  <大学建物の裏側?>

   <建物の間を歩く>

   <左上に見える建物は?>

 さて、こうして歩き、12時45分頃、ポルタジェン広場に到着しました。この広場からモンデゴ川に沿って南東に向かいますと、ドン・ペドロ(Dom Pedoro)というレストランが見えてきました。


  <ポルタジェン広場の屋台> 

  <寒い季節なのに極楽鳥花?>

 コインブラ駅から大学などを見学する際にはモンデゴ川に架かるサンタ・クララ橋がありますが、この広場は、その手前にあり、広場に面してPastelaria(英語ではPastry)という粉菓子などを販売している店などが並んでいました。私たちは、この店で金平糖という日本語にもなっているコンフェイト(Confeto)を買うことができました。


 <ボルタジェン広場の店>

  <ドン・ペドロでの昼食> 

  <野菜サラダ>

  <イカグリルとポテト>

 昼食につきもの?の飲み物は、小生が赤ワイン(2.5ユーロ)、かみさんが紅茶でしたが、料理の方は、どれも文句なし!の美味しいものでした。撮影していなかったデザートのプリンも甘さ控えめで、こちらも文句なしの味でした。

 こうして、昼食を済ましてコインブラを14時15分ごろ出発して、次の訪問地
アルコバサに向かいました。
 アルコバサは、コインブラからは南に100㎞ぐらいの距離にあり、車で約1時間30分かかるということです。
 この間に見えた光景などをレポートしたいところですが、15時20分頃バスが乗用車に追突しそうになるというハプニングがあったほかには何もありませんでした。
 やがて、アルコバサに到着する10分ぐらい前に添乗員からアルコバサに修道院を建設したアフォンソ1世のことなどの説明があり、予定通り15時45分頃、この世界遺産の町に到着しました。


 ◆ アルコバサ、世界遺産の修道院 


 【アルコバサちょこっとガイド】

 アルコバサ(Alcobaca)は、ナザレの東約14㎞、アルコワ川とバサ川が交わる小さな町です。
 12世紀初めに初代ポルトガル王アフォンソ・エンリケスがレコンキスタに協力したシトー会(カトリック教会に属する修道会。フランス、ブルゴーニュ地方出身の修道士ロベールが1098年、フランスのシトーに設立したシトー修道院が発祥です。戒律の中でも労働と学習を重んじ、白い修道服を着ていたことからシトー会士は、「白い修道士」とも呼ばれています。)に感謝して修道院をここに建設したことが町の始まりだとされています。
 ポルトガル最古のゴシック様式の教会をはじめ、中世の建築群がそのまま残り、修道院は、現在、
世界遺産に登録されています。修道院の正面ファサード(建築物の正面部分・・・デザイン)は18世紀に改築されたバロック様式ですが、内部はゴシック様式が残り、強い精神性を感じさせるものとなっています。
 また、悲恋物語の主人公
ペドロ1世と愛妾イネスの棺(南の翼廊)があることで有名です。



 ユーラシア旅行社がこの地をツアーの訪問地に選んだのは、修道院が世界遺産に登録されていることだと思いますが、もしかしたら悲恋物語を勉強するためだったのでしょうか?

 変な勘ぐりをするな?!
 早速、アルコバサ到着時の町の光景と修道院をご覧いただきましょう。


  <アルコバサの街並>

   <アルコバサ修道院>

 左写真に写ってる川がアルコワ川なのか分かりませんが、修道院到着10分前ぐらいの光景です。
 右の修道院は、バランスのとれた美しい建物ですが、正面の二つの高い建物がファサードといわれるもので、バロック様式で建設されているという話です。
 ですが、小生は、一度は建築様式を勉強したことがあるのにゴシックだ!バロックだ!といわれても忘却の彼方になってしまいました。
 などと言っていますが、要は正面からファサードを撮影していなかった!ということです。



  <修道院のファサード> 

    <教会の礼拝堂> 
 修道院のファサードのことは、「撮影していなかった」などと申し上げましたが、有り難いことにかみさんが帰り際に撮影したようです。
 さて、修道院の内部ですが、入口を入りますと、左側手前にチケット売り場があり、正面には「教会(Igreja)」がありました。
 教会は、身廊の幅が23m、高さ20m、奥行き106mという規模ですが、ご覧のようにシトー派の禁欲的な精神に沿って彫刻などの装飾を排した質素な造りとなっています。

 教会の奥の南側には「翼廊」と「王室パンテオン(1782年に完成したポルトガル最初のネオ・ゴシック様式の霊廟)」がありまが、翼廊には、悲恋物語で知られるペドロ1世とイネス・デ・カストロの棺が、パンテオンには、数名の王子の棺などが安置されています。(パンテオンとは、多神教の古代ギリシャ、ローマでは、万神殿の意味でしたが、のちに転じて国家的英雄、偉人の霊廟も指すようになったそうです。)



  <ペドロ1世の棺>

 質素な造りの教会内で唯一華やかな装飾を施されているのが、ポルトガルゴシック芸術の最高傑作と称される「ペドロ1世とイネス・デ・カストロの棺」です。
 ならば、十二分に撮影したと思ういますよネ!ところが、小生は、たった3枚しか撮影していなかったのです。また、かみさんは、「お墓や棺などという神聖なものは撮影してはいけない!」という信念の持ち主ですから1枚も撮影していませんでした。



  <ペドロ1世の棺の彫刻> 

  <イネス・デ・カストロの棺> 

 まったく情けない!たりゃ、ありませんね!ポルトガル最高傑作の石棺なのですから「上から下から横から」余すところなく撮影すべきだったな!

 さて、翼廊に話を戻しますと、翼廊の南には「ペドロ1世の棺」が、北側には「イネス・デ・カストロの棺」が置かれています。
 そして、石棺の上には、ペドロ1世とイネス・デ・カストロの像が互いに足を向ける形で置かれています。

 また、それぞれの棺側面のレリーフには、ペドロ1世の棺では、聖バーソロミュー(ペドロ1世の守護聖人)の生涯が、イネス・デ・カストロの棺では、キリストの誕生から復活までが描かれています。
 などと知ったかぶりをして説明していますが、そもそも悲恋物語とはいかなるものなのでしょうか?ここで、ちょこっとガイド2でお知らせします。



 【アルコバサちょこっとガイド(No.2)】

 
ドン・ペドロとイネスの悲劇<Wikipediaより>
 ポルトガル王アフォンソ4世(在位1325年~1357年)は、1334年、王太子ドン・ペドロをカスティーリャ王族コンスタンサ・マヌエルと結婚させた.。
 ところが、カスティーリャ王国か嫁いできたコンスタンサの女官の中にイネス・デ・カストロという香しい美女がおり、ペドロはイネスの方に夢中になった。
 王位の後継者が正妻を省みず、不倫の愛に溺れるのを見かねたアフォンソ王は、何度もペドロにイネスとの関係を絶つように迫るが、ペドロは聞き入れようとはしなかった。
 王女コンスタンサは、王子フェルナンド(のちのフェルナンド1世)を出産したが、早世した。やがて歳月が流れ、ペドロはイネスとの間に子も生まれた。
 公務をないがしろにしてコインブラで愛の生活を送るペドロに絶望したアフォンソ王は、ついにイネスを亡き者にするよう3人の家臣に命じた。
 1355年1月7日、王子ペドロの不在の間に3人の刺客はイネスを暗殺した。このことを知ったペドロは怒り狂い、ポルトガル北部で反乱を起こすが、母后ベアトリスのとりなしで、翌1356年8月に父と子は和解した。
 その5ヶ月後、、アフォンソ王が死去し、ペドロはポルトガル王に即位した。これがペドロ1世(在位1357~1367年)である。




 と、これで物語が終われば「めでたし!めでたし」ですが、この後がありました。


 【アルコバサちょこっとガイド(No.3)】
 ペドロ王は父王とは和解しても、実際にイネスを手にかけた3人の刺客は許せなかった。カスティーリャに逃れた二人はポルトガルに引き渡され、ペドロ王の目の前で処刑された。アラゴン王国に亡命した者は自殺に追い込まれた。イネスを亡くしたペドロ1世はその後、二度と結婚せず、独身を通している。そして公務に精励し、しばしば地方を巡回して裁判を行った。その裁判は厳格を極め、ペドロ厳格王と呼ばれた。ドニャ・イネスの悲劇はポルトガルの誌や伝説の中で永く語り継がれている。



 おおっ、恐!!小生には、アルフォンソ4世やペドロ王の二人の行動は、とてもできそうにありませんが、このような悲劇の歴史に思いを巡らしながら見学したかったものですネ。

 さて、教会やパンテオンの後はチケット売り場の横を通って「王の広間」に向かいました。
 この広間の壁はアフォンソ・エンリケスからジョゼ1世までの歴代国王の像と美しいアズレージョで飾られていました。



  <18世紀建設の王の広間> 
 
 <修道院創設の物語を描いたアズレージョ>

 次は「沈黙の回廊」ともいわれる「ドン・ディニスの回廊」です。


  ,<沈黙の回廊>

  <沈黙の回廊の中庭> 

 沈黙の回廊は、ディニス王によって14世紀初めに建てられたものです。
 2階は、16世紀に増築されたマヌエル様式で繊細なアーチや柱の装飾が特徴であるとされています。
 残念ながら2階からの撮影ではありませんので、その繊細さは理解できないかも知れませんが、中庭を囲む回廊から鐘楼が見えていて、回廊に中庭を配置したポルトガルの修道院らしい光景だと感じました。

 次は沈黙の回廊の右隣にある「参事会堂」です。と思ったのですが、その前にかみさんが回廊にあった「聖母子像」を撮影していましたので、ご覧ください。
 聖母子像は、木彫りだそうで優しくほほえんでいるようでした。
 ところで、この回廊でかみさんがもう一つ面白い像を撮影したのですが、それがどんな彫刻なのか分かりません。

   <回廊にあった聖母子像> 

  <この彫刻は何?>

 さて、回廊を歩いていますと、男性の素晴らしい歌声が響いてきました。
 どうやら歌声は参事会堂からのようです。



  <参事会堂で歌声を聞く>
 参事会堂には、舞台が造られ、その前には椅子が並んでいました。
 力強い歌声でしたが、どのような音楽なのでしょうか?

 さて、参事会堂の役割ですが、ここは、修道士たちが修道院の運営について話し合ったり、懺悔を行う場所でした。。
 また、1180年にはすべての修道院長はここに埋葬されるように定められました。
 

 参事会堂を出て北に向かいますと、左から「食堂」、「厨房」、「僧の広間」が並んでいます。
 このうち、僧の広間は、15世紀末から16世紀末にかけては修練僧たちの宿泊場所でしたが、後に隣に厨房が造られるとワイン貯蔵庫として使われました。(撮影していませんでした。)



  <厨房の水場①>

  <厨房にある蛇口>

 次に、厨房ですが、当初は回廊の西側にありましたが、18世紀後半にこの場所に移されました。
 7頭の牛を一度に丸焼きにすることができたという調理器具や巨大な煙突
(写真②)、川の流れを引き込んだ水場(写真①)など、当時としては最先端の設備を見ることができます。


   <巨大な煙突②>

  <大きな食堂③> 

 食堂(写真③)は、ご覧のように大きなものですが、最盛期には1000人の修道士が一斉に食事をしましたので、このような大きな部屋が必要だっそうです。

 修道士たちは、回廊にある泉で手を清め、食堂へと入ったといいます。 
 部屋の西側には食事中に聖書を朗読した説教台や、修道士の太りすぎをチェックする狭い扉口がありました。
 この扉口、幅が35㎝、高さが180㎝ですが、小生はお腹が相当突き出ていますので、通過できないでしょうね。
 この扉を通れない者は食事制限されたといいますから大変ですネ。
 我が家にはこういう厳しい御法度がなくて本当によかったな! 

  <食堂の狭い扉口>

 この後、修道院を出てアルコバサの街をぶらぶらしてから17時ごろ今夜の宿泊地オビドスに向かいました。
 アルコバサからオビドスのホテルまでは約30分で到着しました。
 その間の光景で「何か面白いものはないか?!」と窓の外を「きょろきょろ」と眺めていましたが、残念ながら何もありませんでした。
 ところが、私たちが乗っていたバスがまたもや!事故に遭遇しそうになりましたのでビックリです。
 バスの前を走っていた乗用車が片側2車線の道路を右に左に「ふらふら」していて、急に停車したため、私たちが乗っていたバスも荷物が前に飛ぶほどの急ブレーキをかけたのです。
 イヤー^ビックリしたな!



  <オビドスのホテル> 

  <ホテルAlbegaria ajosefaのロビー>

 まぁ、それはともかくホテル到着後、夕食をオビドスのポサーダでいただくという案内がありました。
 18時30分にホテルのロビー集合で街を散策を楽しみながらいただくことになりました。

 ところで、なぜ街を散策するのかいえば、城壁に囲まれたこの小さな町を見学するという予定が入っていないからのようです。
 人口が800人、「谷間の真珠」と呼ばれる絵のようにかわいらしい町で、1282年にこの町を訪れすっかり魅了されてしまった王妃イザベルにディニス王が町を贈り、以降1834年までオビドスは代々の王妃の直轄地となったという歴史があるそうです。


 私たちが宿泊したアルベガリア・ジョセファ(Albegaria Josefa)というホテルは、城壁の外にありますが、城壁の西門、通称ポルタ・ダ・ヴィラのすぐ近くにありますので、町の見学にはとても便利なところでした。


  <サンタ・マリア教会>

  <サンティアゴ教会>

 また、城壁は南東に細長い地形ですが、西門からディレイタという通りを進んでいきますと、主な見どころであるサンタ・マリア広場、サンタ・マリア教会などを見学することができます。 そして、さらに通りを進んでいきますと、ポサーダになっているお城に突き当たりますが、ここが夕食の会場でした。

 サンタ・マリア教会は、サンタ・マリア広場に面していて、この広場には教会の他に市立図書館などがありますが、東側にアーケードがついた旧市場、北側には罪人のさらし柱であるベロニーニョが建っています。
 このベロニーニョには悲しい言い伝えを持つ網模様が刻まれているそうですが、残念ながら小生は撮影していませんでした。
 なお、右上のサンティアゴ教会は、夕食をいただいたポサーダ・ド・カステロの前にありました。


  <パンプキンスープ>

 <七面鳥のステーキ>

  <デザート> 

 夕食のメニューは、パンプキンスープ、七面鳥のステーキとポテト、プリン、コーヒーORテーとなっています。
 この評価ですが、スープはコクがなく「まあまあ」、メインの七面鳥は柔らかいほうれん草が入っていて、彩りは良かったのですが、味としては「まあまあ」といったところでした。「美味しかった」のは唯一デザートだけでした。(ごめんなさい。)
 そんなことをいうから料理が怒って帰る直前に激しい雨を降らしのかもね?















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 このページ(No.13)は、コインブラ、アルコバサ観光を掲載しています。