ルーマニア・ブルガリア大周遊17日間の旅行記
 <2012.10.16(火)~11.1(木) (株)ワールド航空サービス>

     ~旅行14日目・10月29日(月) お天気<曇り>~ 





                             No.23

 昨日は長い距離をバスに揺られてグラフモールに到着しました。
 
宿泊したホテル、ベスト・ウェスタン・ブコビナは、横長の高い建物にトルコのキノコ岩のような形の屋根が特徴の大型ホテルです。
 
また、フモール修道院のバスの乗り場が目の前のあるという好立地の場所でもあるそうです。
 このように建物自体は近代的で綺麗ですが、部屋の面積がちょっと狭く、浴槽はなし、ベッドはシングル、部屋が横向きのためか窓からは真下の大きな道路が見えていました。おまけにコンセントが見当たらないので、デジカメなどの充電に苦労しました。
 食事や外観、立地場所が良く、また、シャワーのみとか、ベッドがシングルというのは悪くはないのですが、部屋が狭いこととコンセントがないというマイナス点を考慮しますと、このホテルの評価は、
「まあまあ」ということになると思います。

 さて、今日は「ルーマニアの最大の見どころ!」と言っても過言ではない「ブコビナ地方の世界遺産5つの修道院群」を見学します。
 ホテル出発が8時15分ですが、その前に腹ごしらえです。(モーニングコール6時45分、朝食P階のレストランで7時から)

 またまたハムと卵のオンパレード?
 でも、よく見れば分かりますが、トマト、キュウリ、キャベツといった野菜たちも豊富でバランスがとれていると思います。
 もちろん、飲み物(コーヒー)も十分あり、昨夜の夕食と同様に好感?しています。

 さて、今日の予定は「5つの修道院群」と申し上げ、また、地球の歩き方P255でも大きく「5つの修道院」と掲載されています。
 ところが、地球の歩き方が案内している修道院の数は、5つではなく「6つ」あります。
 修道院の名前は、スチェヴィツァ修道院、モルドヴィツァ修道院、アルボーレ修道院、フモール修道院、ヴォロネツ修道院、ブトナ修道院です。
 このうち、スチェヴィツァ修道院以外の修道院が世界遺産に登録されているそうです。
 
 まず、私達が宿泊したグラフモールを含めた修道院の位置関係についてご覧いただきます。
 グラフモール・ルイは、地図の中央の下に白い文字が見えます。
 また、モルドヴィツァ修道院(モという文字が見えない)とスチェヴィツァ修道院が左側に、その右隣にアルボレ修道院という文字が見えています。
 でも、グラフモール・ルイから最も近いのは、ヴォロネツ修道院で、グラフモールルイ(Gura Humorului)という文字の真下に、また、フモール修道院という文字が真上に黒い字で表示されています。
 この地図は、ルーマニア政府観光局のホームページに分かりやすい略図がありましたので、それを拝借しました。

     

 ところで、小生は、またもや勘違いをしていました。
 ルーマニア政府観光局が作成したホームページによりますと、ブコビナ地方の修道院群とは「9つ」の修道院のようです。
 地球の歩き方でも、また、ワールド航空サービス社の日程表でも「5つの修道院群」という言葉を使っていましたので、修道院の数は「5つ」だと勝手に思っていたのです。

 さて、その9つの名前を申し上げますと次の通りです。
 ■⑤ アルボレ修道院 Arbore村 1993年世界文化遺産登録
 ■② ヴォロネツ修道院 Voronet村  1993年世界文化遺産登録
 ■④ スチェヴィツァ修道院 Sucevita村 2010世界文化遺産登録
 ■  スチャヴァ聖ゲオルゲ修道院 Suceava市 993年世界文化遺産登録
 ■① フモール(修道院)Humor村 1993年世界文化遺産登録
 ■  プロボタ(修道院) Probota村 1993年世界文化遺産登録
 ■③ モルドヴィツァ(修道院) Moldovita村 1993年世界文化遺産登録
 ■  ドラゴミルナ(修道院) Dragomirna村 未登録 

 そして、このうち、スチェヴィツァ修道院以外が世界遺産に登録されていると地球の歩き方に記載されていましたが、同社のデータが古いようでスチェヴィツァ修道院も2010年に登録されていますので、8つの教会(修道院)が世界遺産に登録されていることになります。。
 ルーマニア政府観光局によれば、④のスチェヴィツァ修道院が世界遺産に登録されなかった理由(経緯)は、「新しい(1582-84建設)ためか、それとも建設様式が次世代のものとみなされたためか、世界遺産の選考の際、対象外となってしまった。」というものです。
 理由は異なると思いますが、富士山が世界文化遺産に登録される際、三保の松原が除外されるのではないかという話がありました。政府と国民の思いとしては、この教会も最初から世界遺産に登録されるべきものだと考えていたのでしょうね。

 でも、スチェヴィツァ修道院も三保の松原も登録されたのですから、喜ばしい限りです!
 ということで、地球の歩き方の「ダイヤモンド社」、そして、ルーマニア政府観光局も、早急に本やホームページを更新した方が良いと思います。


 小生の能書きはこのくらいにしまして、私達がお邪魔した修道院ですが、前述した9つのうち、丸で囲んだ番号の修道院を番号順に見学しました。

 と思ったら大切な能書きを忘れていました。
 この5つの修道院群のことを世界遺産の登録名になっている
「モルダヴィア(モルドヴァ)地方の教会群」と申し上げますが、その概要を理解する必要がありますので、政府観光局の文章を引用します。

 修道院概要
 ルーマニアの修道院は、日本の建物でたとえると寺社のような存在で、鎮魂帰神(鬼神の間違い?)を求めて修行する修道士の生活する場所だけでなく、宗教的社会の中核としての存在、そして昔から文化を促進する存在であり続けてきた。中世時代、ルーマニアの国土が移住民族に侵略される度毎に、町や集落が礎から焼き尽くされて、命からがら助かった人々は生活を元に戻すために簡易な家屋を建て直すのがやっとであった。そのような時代は、家宝や家財道具が子孫に受け継がれることがほとんどなく、ルーマニアの文化を何とか残すことができたのは、要塞のように作られた修道院だけであった。
 その中でも、北モルドヴァ地方の修道院は、国の著名な領主が建立したものとして、ルーマニアの国史を読み直すことができる場所となっています。
14世紀から17世紀にかけて、現在のルーマニア北東部と、旧ソ連のモルドヴァ共和国を含む地域にモルドヴァ公国が栄えていたが、その最盛期ともいうべき15世紀にはヨーロッパへと侵略を進めるオスマン・トルコ帝国との間に紛争が絶えることはなかった。多くの国がトルコ軍に落ちていくなかで、当時この地を治めていたシュテファン大公(位1457-1504)は、トルコ軍に敢然と立ち向かい、戦闘で勝利を収める度に、神の加護を祝して修道院を建立した。その数が40を超しているという。

<小生の独り言>
 こういう表現は、まるで時代劇を見ているようですね!
 地球の歩き方では、もっとベールに包まれた書き方になっていて、読み方によっては、大公が戦争をしないでオスマン・トルコとうまく交流していたような書き方です。
 <この時期に、オスマン朝の宗主権下で自治を許されたモルドヴァ公国は、シュテファン大公~ボクダン3世~ベトゥル・ラレシュ公の歴代名君の治世下、ルーマニア中世文化の華を咲かせていた。>と書いてあります。
 でも、ワールド航空サービス社のTさんのメモでも、「オスマントルコの支配から国を守るために戦ったシュテファン大公をはじめモルドヴァ公国君主がトルコに勝利する度に建造したものが、500年という風雪に耐え・・・」となっていますので、ルーマニア政府観光局の「トルコ軍に敢然と立ち向かい、戦闘で
勝利を収める度という書き方が歴史を正確に表しているといえるのでしょうか。

 
信仰心の篤いシュテファンは、国家の存続を祈り、地方統治の要として修道院を建立した。これらの修道院は、外側に分厚い石塀で囲まれ、敵の侵入を防ぐ砦として機能するように建てられた一方、人々の信仰心を集める象徴的な場所にもなり、その中にある教会堂の内壁・外壁が色鮮やかなフレスコ画で、全面覆いつくされていることが多い。
 これらの修道院の中央には、教会堂が立つ。ほかの地方とは異なり、モルドヴァの教会堂は決して大きな建物ではなく、信徒の入れるナウス(身廊)には、地域の支配者が祈りに来て、主な祭日に建立者やその子孫が顔を見せに来た。一般の信徒たちが修道院に入ったとしても、教会の中の前のアイコンの前で祈ったり、壁画を見たり、ミサを聞いたりすることはもとより、足を踏み入れることすらめったになかったわけである。特に祭日の時に多く集まる信心深い民に、教会の中を見せることができなかった。そうして
大昔のあるころから教会の壁の外に絵を描く習慣ができたと思われる。

 これらの壁画の内容は、大きく二つに分けられる。ひとつは建立者の姿や功績、歴史など【現世】に関するものがあり、もうひとつはルーマニア正教で重んじられる聖書の場面や聖人像など、精神の世界を画いた宗教画がある。ただし、現実の世界と神の世界が画家の思い通りに編み困れることもある。たとえば、現実の世界では(と)モルドヴァ公国に対して少しずつ勝ち進んでいるはずのトルコ人が、悪魔が率いる軍として天使との戦いに負け逃げ散る者として画かれた場面、また罪人として悪魔に足を摑まれ地獄に墜ちていく者として画かれる場面がでてくる。
 視覚的な媒体がほとんどなかった中世においてこのような絵は人々にどれぐらい大きな印象を与えたのか、現在の我々から見ると想像することもできない。しかし、当時の意味合いをすべて理解することができなくても、見るものはなんとなく心に響くような何かを感じるはずである。

<またまた独り言>
 「大昔のあるころから」という表現は、メルヘンチックで、とても良いですね!
 ところで、その意味は、信仰心の篤い民に教会の中を見せることができなかったで、「いつのころかは分からないが」外壁に絵を描く習慣ができた!ということでしょうか?
 そして、絵画の内容は建立者の姿や功績、歴史などと聖書の場面や聖人像ですが、そこには戦いに負けて逃げるトルコ人、悪魔に足を摑まれ地獄に落ちていくトルコ人が画かれている、というのですから驚きですね。
 トルコ人は悪者にされてしまいましたね!現在のトルコの人々は、親日的でとてもいい人々だと思うのですが・・・

 ということで、長い!長い
「修道院概要」を終わりにします。本当は、この次に「教会の各部の名称」が続くのですが、省略します。

 まず、私達が案内された修道院は、グラフモールルイ(どの書き方が正しいのでしょうか?)から最も近いフモール(修道院)Humor村 1993年世界文化遺産登録です。
 ここでは、駐車場で「ワンちゃん」が私達を待っていました。



 <歓迎!駐車場のワンちゃん>

  <フモール修道院の入口付近>

 フモール修道院には、8時25分に到着しました。上の写真は、駐車場付近の様子ですが、これだけを見ても静かな佇まいの教会(修道院)だということが伝わってくると思います。
 ところで、こうしてレポートしている小生も迷ってしまうのですが、教会なのか修道院なのか?どちらが正しいのでしょうか?
 「どっちゃでもよい!」という声が聞こえそうですね。
 まぁ、そうですが、参考になると思いますで、正確な表示であると思われるWikipediaのとおり記載しておきます。
 
「かってのフモール修道院(Humor Monastery)の生神女就寝教会」という説明になっています。

 この教会の歴史や見どころについては、「地球の歩き方」を引用しますが、細かくはルーマニア政府観光局のホームページをご覧いただきたいと思います。

 地球の歩き方によれば、この修道院は、1530年にモルドヴァ公国のブブイオグ大臣夫婦(当時の領主ベトル・ラレシュの最高議長オードレ・ブブヨグ)によって建てられたそうです。壁画は,宮廷画家トーマなどの手によって1535年に仕上げられたものです。(修道院群の中で画家の名前が分かっているのはここだけ!という説明ですが、政府観光局のホームページでは、(モルドヴィツァ修道院の画家と同じ)となっています。)


 <外壁が見えるフモール修道院>
 
  <フモール修道院の全景>

 「壁面は、南面を除いてはげ落ちていて保存状態が悪く、判別不能。」という説明ですが、壁画が綺麗に描かれていますので、私達が見学している場所が南面ということなのでしょうか?
 なお、左写真の手前が入口方向で、右写真が正面(南面)になると思います。
 それにしても、敷地内の光景が美しく、「パチパチ!」とシャッターを切ってしまいました。 そのため、ここだけで33枚も撮影したので、皆さんにも是非、ご覧いただきたいのですが・・・。
 また、肝心な壁画の中身ですが、
「南面のモチーフは、正教総本山だったコンスタンティノープルの司教セルケイが、626年のペルシャ軍襲来から町を守護した聖母マリアに捧げた24の誌の場面。」だそうです。でも、小生が撮影した下の壁画は「24の誌の場面」ではないのかもしれません。


  <24の誌の場面?>

    <最後の審判?>
 この教会の壁画は、「最後の審判」、「エッサイの木」、それと「コンスタンティノープルの包囲と聖母への賛美歌」が有名だといいます。(政府観光局ホームページ)
 また、「626年の攻撃者がペルシャ人だったはずが、この壁画では、服装や武器などがトルコ人に置き換わっているのがおもしろい(もちろんこれはモルドヴァ地方の他の教会堂と同じである)。」と説明しています。

 要は、壁画が描かれたのは中世の時代ですから、ペルシャ軍の名を借りてオスマン・トルコを悪者にしたかったということでしょうか?

 そんなことより、中の様子や33枚の写真をもっと見たい?残念ながら中の写真はありません(撮影禁止)が、できるだけ多くの写真を掲載したいと思います。
 そして、最後にフモール修道院に対する小生の簡単(感嘆)コメントを申し上げます。



 <入口右側の建物(鐘楼?)>
 
  <教会堂の丸い部分>

  <美しい壁画>
 
  <入口の赤い壁画>

 右上の写真のように教会の建物は、見る人の目を和ませる丸い曲線の部分があります。
 この部分の屋根のことを政府観光局では、「張り出し屋根は上から紐で吊されているかのように優美な局線を見せる・・・現代の建築家からも
ビザンチン芸術の傑作と絶賛されている。」と説明しています。

 なお、小生のメモは「最初に訪問したところで、敷地内の美しさと内部のフレスコ画の数々の美しさに
びっくり!」となっていました。

 さぁ!ここを9時20分に出発して、次は「ヴォロネツ修道院 Voronet村 1993年世界文化遺産登録」に向かいました。

 ヴォロネツ修道院、グラ・フモルルイから8㎞南、国道から分かれる道に入って、ヴォロネツ村を通過すると修道院の前に到着します。
 シュテファン大公の命で聖ゴオルゲに捧げる尼僧院として1488年に完成したといいます。 修道活動は、この地がハプスブルク帝国の配下におかれるまでの300年間続いたそうです。 その後、共産党政権が倒れる1990年までは活動していなかった時代が続きましたが、91年に活動を再開し、現代では、修道女たちが礼拝を中心として農作業、聖画製作の生活をしながら観光ガイドの行っているそうです。(政府観光局HP)

 
 <ヴォロネツ修道院の入口から>
 
  <修道院入口付近の建物>

 この写真を見ますと、フモール修道院と似ていますが、トンガリ帽のような丸い建物があるのが違う点だといえるかも知れません。

 次に、修道院の壁画ですが、地球の歩き方に従って申し上げます。
 
東面に「聖人伝」、南面には「エッサイの樹」そして西面には「最後の審判」の絵が描かれている。通常、キリスト教会の入口はすべて西側に設けられている。東エルサレムに向かって祭室があり、十字架が安置されるから、入口は西方を向く構造になっているのだ。しかし、ヴォロネツの聖堂入口は最後の審判を完全に描ききるため、西方にはない。

 ということは、「最後の審判」が描かれていた西方は、左写真でいいますと、小生の記憶では奥でしたから左写真の壁画は、東方の「聖人伝」ということになるのでしょうか?

 

 写真を大きく引き伸ばしてみましたが、「なるほど!」聖人が描かれていますネ。
 次に「エッサイの樹を!」と言いたいところですが、撮影していませんでした。かみさんとの記念写真が残っている西方の「最後の審判」をご覧いただきましょう!



  <ヴォロネツ修道院の西方>

  <ヴォロネツ修道院の最後の審判>

 かみさんとの記念写真が見たい?残念ながらNO!です。
 代わりに西方の絵画をもう少しご覧いただきましょう!


  <中央が審判の判定人?>
 
  <天国の隣の聖人像?>

  <こちらが天国?>
 
  <聖人像の隣の絵>

 4枚の写真の下に書いてあるコメントは、正しい!と思わないでください。小生が勝手に考えたものです。
 左上の「審判の判定人?」は、もしかしたらイエスキリストでしょうか?
 いずれにしても、この西方の絵は、「最後の審判」を描いたものですから、簡単に「最後の審判」について地球の歩き方に書いてある説明を紹介します。

最後の審判」とは、生きている人々はもちろん、すべての死者も復活して生前の行いを神に裁かれる、人類最後の日。神に選ばれたものは天国の門へ、罪業の深いものや異教徒は地獄へ、天使が奏でる楽器はルーマニアのプチューンで、地獄に落ちているのはここでもトルコ人である。

 それにしても、こういう考え方は、一見、当然のように聞こえますが、小生は、違和感を覚えます。神などは所詮、人間が作りだしたものであり、もっと人間としての苦悩をどう救うのかという視点が宗教にはあって良いと考えるからです。
 「罪業深きものこそ救われる!」という浄土真宗の「親鸞」の思想などと正反対のようで、日本の仏教の方が思想として優れていると思えてなりません。

 さて、この修道院を1時間弱見学して10時45分に次の訪問地モルドヴィツァ(修道院)Moldovita村に向かいました。
 その様子は、次のページに掲載します。








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