<Lietuva>
  秋のバルト三国美しき古都と城を訪
ねて
   <2014.10.9(木)~10.18(土)・ワールド航空サービス社>


    ~10月11日(金)旅行3日目  天気 曇り~ 






                                  No.6


◆ リトアニアの第2の都市カウナスにて(杉原記念館など)

 ▲ ヴィリニュス」の朝

 皆さん!おはようございます。
 早速、「ヴィリニュスの朝」からをお伝えします。
 といってますが、昨夜、宿泊したホテル「ラディソン・ブリュ・アストリア」ですから申し上
げうることはなかったのですが、本日の予定などを申し上げます。
 6時30分にモーニングコール、朝食が同じく6時30分から、スーツケースの廊下搬出が7
時15分、ロビー集合・出発が8時00分となっています。

 まず、その朝食の様子をご覧ください。



  ≪肉類のメニュー≫

   ≪クルミなど≫

 自宅では、いただかないものばかり!で胃腸が驚いてしまう?
 そうなのですが、ご飯と味噌汁というわけにはいきませんので・・・
 味のコメント?旅行2日目(ページNo.3)に良くない評価をしています。

 本日は、ヴィリニュスのホテルからカウナスに向かい、その後、十字架の丘によってリガに向
かうことになっています。
 杉原千畝さんに関するカウナスの領事館が本日の見どころですね。

 早速、8時00分のホテルを出発したところからご案内します。
 バスの中では、Tさんから杉原千畝に関するお話を伺いました。
 杉原千畝は、第2次世界大戦の初期、ナチスの迫害を逃れるために日本通過に活路を求めてき
たユダヤ人に、本国の指示に背いてまでヴィザを発給して多くの命を救った人で「東洋のシンド
ラー」といわれています。

 こういう話を聞きますと、日本人として本当に誇らしく思えます。
 ところで、なぜ、ヴィリニュスではなくカウナスの領事館があったのか?といえば、当時、首
都がカウナスだったからだそうです。
 この話の細かいところは、追々申し上げますので、領事館到着までの1時間30分の間に見え
た光景をご覧ください。



  ≪ロシア正教会≫

   ≪ヴィリニュス市内≫

 まず、ご覧いただいた左上の写真は、ホテル出発直後に見えたヴィリニュス市街の様子です。
 ロシア正教会は、工事が終わると丸い屋根の色が明るい緑色に変身するのでしょうか?

 次の光景は、出発から30分ぐらい経ったところのロシア正教と、その後40分(ホテル出発
から1時間10分)ぐらいのところの朝靄が漂う光景です。



   ≪またもやロシア正教!≫

   ≪朝靄が漂う光景≫

 こうしてカウナスの旧日本領事館に近づいてきました。次の2枚の光景は、領事館到着10分
から5分ぐらい前のカウナスの様子です。



   ≪10分前に見えた建物≫ 

  ≪紅葉のカウナス≫

 ▲ カウナスの旧日本領事館

 いよいよこの旅で一番見学したかった旧日本領事館に到着です!
 そこには、命のヴィザを表す「希望の門」と命名された細長い標識があり、静かに私たちを歓
迎しているようでした。



   ≪命のヴィザの表札≫ 

   ≪旧日本領事館≫

 この建物を見ると、領事館というより一般の民家のようでした。

 ところで、カウナスの見どころとしては、白鳥に例えられる美しいバロック様式の旧市庁舎や
聖ペトロ&パウロ大聖堂、ヴィタウタス大公教会などがある旧市街とウィエニーベス広場や旧大
統領官邸などがあるとのことですが、ここは、どうしても、旧日本領事館を先に見たい!という
のが人情ですよネ。

 そこで、早速、旧領事館の中に入り、まず、生涯をまとめた15分ほどのビデオを鑑賞してから調度品や貴重な査証、家族写真などを見学させていただきました。



  ≪旧領事館の入口に向かう≫

   ≪杉原記念館の標識≫

 この建物は、もともとの領事館そのもの、ということですが、住宅街の一角にあるごく普通の
建物であるため、知らないと通り過ごしてしまうようにひっそりと建っていました。
 私たちは、正面の案内看板の矢印のとおり建物の左側にある入口から中に入りましたが、その
右側にはご覧のような杉原記念館を示す黒の標識がありました。



  ≪命のヴィザ≫

   ≪縦に撮影したヴィザ≫

 早速、ビデオ鑑賞ですが、その前に「命のヴィザ」が目に飛び込んできましたので、「これが
命のヴィザか!」と思わずパチパチと撮影してしまいました。

 さて、15分程度のビデオ鑑賞ですが、杉原千畝がリトアニアにやってきた経緯や、命のヴィ
ザ発給に関する時代背景、ヴィザを受け取りにきた人々の様子などが描かれていました。



   ≪ビデオ鑑賞≫

  ≪子供の写真や名簿≫ 

 特に、時代背景については、分かりづらいのですが、どうして杉原が命のヴィザを発行したの
かを理解する上で必要な知識だと思います。
 しかし、小生がこれをかいつまんで説明するのは難しいと思いますので、ウキペディアなどを
ご覧ください。
 中でも、重要なところは、小生の理解が間違っているかも知れませんが、次のようなところだ
と思います。



≪ウキペディアからの抜粋≫

 1939年(昭和14年)に杉原はリトアニアの在日本総領事代理となり、8月28日に着任
したのですが、9月1日にドイツがポーランド西部に侵攻し、第2次世界大戦が始まったのです
。独ソ不可侵条約秘密議定書に基づき、9月17日にソ連がポーランド東部への侵攻を開始しま
す。そして10月10日にリトアニア政府は、軍事基地建設と舞台の駐留を認めることを要求し
たソ連の最後通牒を受諾したのです。これを受け、翌年の1940年6月15日には、ソビエト
軍がリトアニアに進駐します。この頃には、ユダヤ人に対するナチス・ドイツの迫害が激しく
なっていました。
 もともとユダヤ教の神学校があったためポーランドとリトアニアにはユダヤ人が集まっていま
したが、特に、ドイツ占領下のポーランドから迫害を恐れてリトアニアに逃亡してきた多くのユ
ダヤ系難民がいました。しかし、彼らの逃げ道は、シベリア鉄道を経由して極東に向かうルート
しか残されていなかったのです。しかもリトアニアを占領したソ連は、各国に在リトアニア領事
館、大使館の閉鎖を求めていたのです。
 このような中でユダヤ系の難民たちは、まだ業務を続けていた日本領事館に名目上の行き先へ
の通過ヴィザを求めて殺到したということなのです。

 日本の通過ヴィザを発給するには、受け入れ国の入国許可手続きが完了し、旅費と日本滞在費
を有する者にのみ査証を発給せよ、という外務省の指示があったのですが、杉原は、人道上の立
場から本省の訓命に反して発給条件を満たしていない者に対しても独断で通過ヴィザを発給した
のです。

 杉原がなぜ日本人が誰もいないカウナスの領事代理になったのか?それは、日本の関東軍、す
なわち満州に駐留する精鋭部隊をソ連国境から可及的速やかに南太平洋に転進させたかったから
です。ドイツ軍による(西方からのソ連への)攻撃の日時を迅速かつ正確に特定することが、公
使たる小官の主要な任務であった(1967年に書かれた千畝による露文書簡の冒頭部分)とい
うのですから驚きです。

 それが、「忘れもしない1940年7月18日の早朝であった、6時少し前。表通りに面した
領事公邸の窓際が、突然人だかりの喧しい話し声で騒がしくなり、意味の分からぬわめき声は人
だかりの人数が増えるためか、次第に高く激しくなっていく。で、私は、急ぎカーテンの端の隙
間から外をうかがうに、なんと、これはヨリヨレの服装をした老若男女で、いろいろの人相が、
ザット100人も公邸の鉄柵に寄り掛かって、こちらに向かって何かを訴えている光景が目に映
った(杉原の回想の手記)」という思いも寄らない騒動が起こったのです。




 ここから前述したような杉原の勇気と決断があったのですが、「こんな素晴らしいことをした
日本人がいたのだ!」と、ただただ頭が下がる!思いです。

 バルト三国にきて本当によかったな!という思いを強くした訪問でした。



≪杉原千畝の執務室≫

 ところで、杉原は、東洋のシンドラーと呼ばれていて、イスラエルから「諸国民の中の正義の
人」として表彰されていますが、「シンドラー」とは何でしょうか?
 シンドラーとは、オスカー・シンドラーというチェコ(ドイツ人)の実業家で、第2次世界大
戦末期に多くのユダヤ人の命を救ったことで知られている人物です。
 彼は、ドイツ占領下のポーランドで経営していた軍需工場に労働者としてユダヤ人を雇い入れ
、その身柄を保護することで1200人に上るユダヤ人の命を救ったそうです。


 ところで、小生は、写真の机に座ることができましたが、「私なら本国の意に反してヴィザを
発給してユダヤ人を助けることができただろうか?」などと考えてしまいました。

 次に小生が撮影したものは、よく分からないのですが、杉原やリガ(ラトヴィア)の大鷹公使
、外務省の電信文書などでした。


  ≪電信第67号≫
 杉原は、わざと返信を送らせてヴィザ発給要
件に関する本省との論争を避け、領事館を閉鎖
した後になって電信第67号(昭和15年8月
1日後發)を本省に送ったのです。

 内容?
 行先国の許可や必要な携帯金のない多くの難
民に関しては、必要な手続きは納得させた上で
当方はヴィザを発給している、というもの。
 遵法を装っている内容の電信文ということで
すね。
 右の電信文は、ラトヴィアの首都リガの大鷹公使から昭和15(1940)年7月31日(後發)に外務省に送った電文です。

 内容は、「メーメル」は領事館の地としては、不適当なので、ケニヒスベルクがよい。ただし、杉原は、正式な総領事などの下で対ソ連関係の事務を行わせるのが適当である、などという松岡大臣あての電信文ですね。

  ≪リガの大鷹公使の電信文≫

   ≪命のヴィザ≫
 「メーメル」は、バルト海沿いのリトアニア
の港湾都市、「ケ(ー)ニヒスベルク」は、1
945年までは東プロセインの中心都市、現在
はロシア連邦のカリーニングラードになってい
ます。


 左の「命のヴィザ」には、「昭和15年12
月3日至昭和16年1月3日」という福井県の
入国許可の印が押されています。


 さて、次に小生が撮影したものは、杉原千畝氏の家族写真などの私生活に関するものでした。


   ≪領事館の人々と家族≫

    ≪家族との写真≫
 これらの写真は、いずれも杉原千畝と家族、領
事館で働いていた人々との写真です。

 家族との写真には、妻の杉原幸子さん、長男弘
樹さん、次男千暁さん、妻の妹菊池節子さんが写
っているそうです。(右上の写真)
 

  ≪同じく家族との写真≫

 こうして約2時間にわたって旧日本領事館を見学したのですが、ここを去るに当たって建物の
裏側からも撮影しました。
 この感動的な舞台で何が行われたのか!?「命のヴィザ」に思いを巡らしながら別れを告げた
のです。



   ≪領事館の裏側≫

   ≪希望の門 命のヴィザ≫

 ここに「さよなら」を告げて、次に向かったのは、カウナスの市庁舎やカテドラルがある旧市街でした。







次のページ(No.7)  前のページ(No.5)  トップページ(No.1) 








 このページ(No.6)は、リトアニアのカナウスにて杉原記念館などの模様を掲載しています。