<Latvija>
 秋のバルト三国美しき古都と城を訪
ねて
   <2014.10.9(木)~10.18(土)・ワールド航空サービス社>


    ~10月12日(土)旅行4日目  天気  曇り時々雨~ 






                                  No.8


◆ ラトヴィアの首都リガにて(旧市街の「三人兄弟」など)

  ▲ リガの朝

 旧市街観光への出発までの予定
  • モーニングコール なし
  • 朝食(ホテル1Fレストラン) 8時00分~
  • 朝の散歩 希望者7時30分ロビー集合(約40分の散歩)
  • 旧市街観光 ロビー集合・出発 9時15分

 以上、旧市街観光に出発するまでの予定ですが、私たちは、朝食を済ましてから散歩に出かけ
たのでしょうか?もちろん、散歩に行きましたが、生憎冷たい雨が降っていました。また、7時
30分では明るくならないことから、何だかあっという間に時間が過ぎてしまった!という感じ
の散歩でした。

 とはいいましても、アヴァロンホテルがリガのどの辺りにあるのか分かりませんので、どの辺
りを散歩したのか説明ができないのです。
 でも、後で地図で確認しますと、アヴァロンホテルは旧市街の最も南にあり、リガ駅から40
0mぐらい、駅から東西に走っている鉄道線路と同じく東西に走っている1月13日という通り
を挟んで南側に中央市場がある、という位置関係にありますので、この周辺を軽く散策したとい
うことでしょうか。



   ≪夜明け前のリガ≫ 

   ≪路面電車≫ 

 さて、軽い散策を終えて次は朝食の模様ですが、その前にホテルの評価ですが、スリッパは用
意してありませんが、シングルベッドながらバスタブ、トイレなどの水回りも良好で、グレード
としては「A」をつけて良いのではないでしょうか。


 パン、コーヒー野菜、ハムなどの肉類、卵、果
物など豊富にあり、肝心な味が良かったものです
からこちらも「文句なしのA」評価でした。

 ところで、小生にしては、「お行儀が良い?」
 たまには品の良いところをお見せしないと!
 

   ≪美味しいそうな朝食≫ 

 さて、こうして予定通りホテルを9時15分に出発してリガ観光に出かけたのですが、小生は
日程表にあるとおり最初に「三人兄弟」の中世の家々に向かうものと思っていました。
 ところが、このページの最初に申し上げた
中央市場に向かったのですから驚いてしまいました
。小雨が降っていましたが、ホテルから歩いて数分の距離ですから、街並みを楽しみながら向か
いました。



  ≪雨の中を歩く皆さん!≫

   ≪中央市場の建物≫

 ▲ 中央市場

 中央市場は、肉屋、魚屋、乳製品店などが入っているが、写真のようにドーム型の建物が目に
飛び込んできます。
 これらの建物は、20世紀初頭に建てられたものですが、建材は当時ラトヴィア領内にあった
ドイツのツェベリン型飛行船の格納庫を移設して使ったそうです。だから、ドームのようなこの
形になったのでしょうね。
 次は市場の中を紹介したいところですが、ここで「リガのちょこっとガイド」を申し上げたい
と思います。


<リガちょこっとガイド>

 リガまたはリーガ(ラトヴィア語:Riga)は、ラトヴィア共和国の首都で、同国最大の人
口を擁する都市です。人口は70万人弱、「バルト海の真珠」と讃えられる美しい港町で、旧市
街は世界文化遺産に登録されている。

 世界遺産に登録されている旧市街「リガ歴史地区」は約300棟のアールヌーボー調の建築物
の宝庫として著名です。

 その歴史は省略しますが、近代の部分を申し上げると次のようです。
 第2次世界大戦がはじまると、まず、ソ連に、そしてナチスドイツの軍事占領を経験します。
大戦中、バルト・ドイツ人はドイツ本国に脱出し、リガ・ゲットーにいたユダヤ人は銃殺される
かカイザーヴァルト強制収容所送りとなりました。1945年にソ連の赤軍が再度リガに軍事侵
攻し、ラトヴィア人を大量に処刑したりシベリア送りにしたことから、市の人口は3分の1まで
激減することになりました。その代わりにソ連政府はロシア人をリガに集団移住させ、リガの民
族構成は一変してしまいますが、1991年にラトヴィアが独立を回復し、リガも首都に返り咲
きました。

 リガの人口は70万人弱で、バルト三国で最大ですが、独立を回復した1991年以降は減少
に転じています。これは、低い出生率とロシア系住民の流出やEU加盟後の他のEu諸国への移
住が原因で、このままだと2050年には現在の半分に減少するという調査結果もあります。
                           <Wikipediaから>




 バルト三国のこうした状況を見ますと、歴史的にドイツやロシアが大きく影響していると感じ
ますが、特に、ロシア人が多数住んでいることから今後もロシアが大きくかかわってくるのでし
ょうか?

 さて、話を中央市場に戻していただいて、市場の中の様子をご覧ください。



    ≪リンゴなどの果物≫

    ≪赤色が印象的な肉類≫ 

    ≪花売り場≫ 

   ≪大小様々なチーズ≫ 

    ≪蜂蜜の数々≫

   ≪魚の干物?≫ 

 この中央市場は、リガの台所を支える巨大な市場ですが、市民の生活が垣間見られますのでと
ても勉強になります。
 並べられている品々は、ご覧のように種類が豊富で彩り豊か、活気に溢れていますが、日本と
大きく違うところはチーズ売り場などでしょうか?
 ところで、わが家の狙い目は「蜂蜜」ですが、お陰様でとても品質の良いものを買うことがで
きました。

 ▲ リガ大聖堂

 中央市場の見学が終わりますと、旧市街に戻ってリガ大聖堂(Rigas Doms)に向か
いました。
 でも、写真は、撮影しなかった?そうではなく、どこをどう歩いたのか分かりませんが、大聖
堂の鐘楼が見えてきたところと大聖堂前のドゥァマ広場(Doma Laukums)から撮影
したところをご覧いただきたいと思います。


   ≪リガ大聖堂≫

   ≪ドーマ広場からの大聖堂≫

 私たちは、大聖堂の中に入って1883年制作のパイプオルガンや美しいステンドグラスを見
学しました。
 ですが、制作当時は、世界で最も大きかったというドイツ製パイプオルガンを撮影していませ
んでした。



   ≪正面の主祭壇≫

   ≪説教台≫

  ≪ティゼンハウゼン一家と聖母マリアなど≫

≪スエーデン王グスタフⅡアドルフを迎える大聖堂前のセレモニーなど≫

 このステンドグラスを撮影したときには、これがどのようなものなのか理解していなかったの
ですが、この2枚がこの大聖堂で見学すべだといわれているステンドグラスのようです。

 上の写真の左右のステンドグラスの内、左側が「ティゼンハウゼン一家(ステンドグラスの寄
付者)と聖母マリア」で、右側が「アルベルト僧正による大聖堂の創設」、そして下の写真の左
側が「1621年、スエーデン王グスラフⅡアドルフを迎える大聖堂前のセレモニー」で、右側
が「1525年、リガ市長に信仰の自由の宣告書を渡すリヴォニア騎士団長プレッテンベルグ」
のようです。

 この2枚は、大きく拡大しましたので、ボケてしまいましたが、「地球の歩き方」という冊子
にあったステンンドグラスに間違いないようです。
 となると、「片側だけを撮影したものはないのか?」というご指摘をいただきそうですネ。

 
 ≪1525年、リガ市長に信仰・・・≫

 ≪アルベルト僧正による大聖堂の創設≫

 そこで、よくよく調べましたら「1525年、リガ市長に信仰の自由の宣告書を渡すリヴォニ
ア騎士団長プレッテンベルグ」と「アルベルト僧正による大聖堂の創設」の2枚を大きく美しく
撮影していましたので、ご覧いただくことにしました。


 パイプオルガンは残念でしたが、美しいステンドグラスが撮影できましたので、十分に満足の
できる大聖堂見学となりました。
 しかし、下の頭がちょん切れた写真はいただけませんよネ!


   ≪リガ大聖堂≫  

 ≪リガ大聖堂前のドゥマ広場≫
  

 さて、大聖堂から向かった次の見学先はどこだったのでしょうか?
 それが、私たちは、リガを訪問したことがないのですから迷い子にならないように添乗員のT
さんや現地ガイドのジュリアさん(女性)の案内に従って見学することになっています。

 ▲ 聖母受難教会、リガ城など

 リガ大聖堂からは、大聖堂前のドゥマ広場(Duma Laukumus)からピルス(Pi
ls)という通りを歩いて英国教会や聖母受難教会、歴史博物館、リガ城などがある北西方向に
向かうようです。



    ≪ピルス通り≫

    ≪突き当たりに教会が!≫

 ピルス通りを歩いていますと、通りの右側に各国の旗がひらめいているグランドパレスホテル
の建物があり、その奥には水色の尖り屋根が印象的な聖母受難教会が見えてきました。
 その手前に左側に赤い尖塔が印象的な英国教会があるはずですが、通り過ぎてしまったのでし
ょうか?
 やがて、聖母受難教会、ラトヴィア歴史博物館・リガ城がある広場のような場所に出ました。



   ≪リガ城≫

   ≪聖母受難教会≫ 

 左上写真の丸い円錐形のような建物は、現在、大統領官邸と歴史博物館として使われているリ
ガ城です。


 この城の歴史は、リガ市民とリヴォニア帯剣騎士団の抗争の中で幾度の建設・破壊が繰り返さ
れ、1330年、抗争に勝利したリヴォニア騎士団の拠点として建てられたが、その後も市民と
騎士団の対立は続き、ようやく15世紀末に騎士団が優勢となり、市民の荒廃していた城の再建
を命じ、1515年に再建が完了したそうです。(ウィキペディアなど)
  リヴォニア帯剣騎士団とは、リヴォニアが現在のラトヴィアからエストニアにかけて位置す
る地名のようで、キリスト教と現地の異教徒の争いの中で1200年前後にアルベルトという司
教が十字軍兵士を集め、1202年にリガ城を本拠地として騎士団を設立したそうです。


 リガ城(写真の右側、黄色の建物など)は、このような歴史があるようですが、近代でもポー
ランド、スウェーデン、帝政ロシアの支配者が住むところとなったなどの歴史があるそうです。

 また、聖母受難教会は、ご覧のように尖塔部分が淡いグリーンの建物ですが、悲しみの聖母教
会といわれるローマカトリックの教会です。
 リガ城の周辺には、緑地があり、「文学と演劇、音楽の博物館」などの建物がありました。


   ≪文学と演劇、音楽の博物館≫

   ≪同博物館の右側の建物≫

 これらの建物の東側には、11月11日通り、その東にダウガヴァ川がありますが、この緑地
からは、近くの緑地や英国教会が見えていました。



   ≪緑地とダウガヴァ川≫

   ≪英国教会の尖塔≫

 この旧市街の最北西部からの見学が終了しますと、次はどこに案内していただいたのでしょう
か?

 ▲ ダウガヴァ川からのリガの光景

 どうやら、ヴァンシュ橋を通ってダウガヴァ川の対岸に向かったようです。
 生憎、小雨模様という天気でしたので、「対岸からの旧市街」が薄暗くぼやけていたのです。
 仕方がありませんので、橋を再び渡って旧市街の先にあるエスプラネーデ公園付近に戻りまし
た。



  ≪対岸からの旧市街≫

  ≪エスプラネーデ公園内の建物≫

 天気が原因のようなことをいってますが、写真がぼけていて本当に見づらいですね。
 対岸から見えた光景は、左の微かに覗いている尖塔が聖ヤコブ教会、その隣がリガ大聖堂、右
側が聖ペテロ教会です。

 対岸からは旧市街の隣にあるエスプラネーデ公園(Esplanade)に戻りました。
 写真の茶色の建物は、公園内にあるラトヴィア国立美術館(Lavian National
 Museum of Art、公園の北東側)ではなく、ラトヴィア芸術アカデミー(Lat
vija Maksias akademeja、公園の南西側)だそうです。
 公園内に同じような名前の建物があるのですから間違ってしまいますね。
 芸術アカデミー前にある銀色の太ったモニュメントは、有名な芸術家の作品だといいますから
、ここにはラトヴィアを代表する芸術団体や教育機関がおかれているのかも知れませんね。

 この公園からは、ヤーニスの中庭(JANA Seta)というところや、かつてはドミニコ
会修道院だったというKONVENTA SETAというホテルの入口を通って聖ヨハネ教会に
向かいました。








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 このページ(No.8)は、ラトヴィアのリガにて旧市街を掲載しています。