連泊で巡るポルトガルの美しい町や村12日間の旅
 <2013.3.5(火)~3.16(木)・ユーラシア旅行社>

    ~3月7日(木)旅行3日目  曇り時々大雨~ 






                                  No.6


 ◆ アレンテージョ地方の北の白い街、カステロ・デ・ヴィデ
   (Castelo・de・vide)

 
<ドン・ベドロ5世広場>
 

 この日の昼食が終わりますと、マルヴァオンから約10Km北にある「カストロ・デ・ヴィデ
」という村に向かいました。
 この村がどんなところなのか知りませんでしたが、白い街並みとユダヤ人に関する歴史がある
ようです。

 マルヴァオンのレストランからは、15分間ぐ
らいで到着しましたので、14時20分頃到着し
ました。
 その間に見えた光景が右写真ですが、カストロ
・デ・ヴィデという聞いたこともないような村を
これから訪問するそうです。
 モンサラーシュや
 マルヴァオンと同じように城
壁に囲まれた街があるそうです。

 <緑の中に川が流れている風景>



<カストロ・デ・ヴィデちょこっとガイド>
 カストロ・デ・ヴィデは、マルヴァオンから約10Km北にある城壁に囲まれた街です。
 この街は、スプイン国境に近いアレンテージョ地方のサン・マメーデ山脈の麓にある村で、標
高が628m、人口4千人です。
 この街を語るとき、ユダヤ人の追放とシナゴーグ(ユダヤ教会)の話が出てくるが、なぜ、そ
のような歴史があるのか?といえば、概ね次のようである。

 ユダヤ人の問題があったときのポルトガルの王様は、
マヌエル1世という方である。
 隣国スペイン(カスティーリャ)では、1492年にユダヤ人追放令が出され、少なくとも1
0万人のユダヤ人が陸路でポルトガルに逃れてきた。
 先王、ジョアン2世は、わずかな例外を除き、8か月の滞在しか許さず、それを越えて滞在す
るものは奴隷の身分に落とした。マヌエルは即位するや、これらのユダヤ人を奴隷身分から解放
した。
 しかし、カトリック両王の王女イサベルを妃として迎えるにあたって、スペイン側はポルトガ
ル領内でのユダヤ追放を求め、1496年にマヌエルもこれに応じた。
 ポルトガルでもキリスト教以外の宗教儀式は違法となり、ユダヤ人に対しては追放令が出され
た。
 しかし、商業、金融業で主要な役割を果たし、また医師などの知的専門職や職人となっている
ものも多いユダヤ人を追放することは、ポルトガルの経済上大損失であることを認識していたマ
ヌエルは、彼らを国内に引きとどめるために、
形式的な強制改宗を断行する。
 1497年3月19日をもってポルトガル国内に在住する全ユダヤ教徒はキリスト教徒に改宗
したことにして、内心での信仰の調査は20年間猶予するというものである。
 この期間はさらに延長され、マヌエル治世下では結局行われなかった。
 しかし、表面的にキリスト教徒になったユダヤ人たち「新キリスト教徒」と呼ばれ、さまざま
な場面で差別を受けた。
 14歳未満の子は親元から離され、キリスト教徒の家庭に里子として出すことが義務づけられ
、そこでキリスト教の価値観や習慣を身につけさせようとした。



 このシナゴーグに関する記述は、ウキペディアの記述のものですが、これを読むと、この時の
ポルトガル王マヌエル1世という方は、問題はあるとしても、なんとかユダヤ人を国内にとどめ
ようとした努力は素晴らしいですよね。


 追放令を受けてスペイン国境に近い「カステロ・デ・ヴィデ」に大勢のユダヤ人が移り住んで
、当時は8000人の人口の半数がユダヤ人だったといわれています。
 だからこそ、シナゴーグなどのユダヤ文化が残っているではないでしょうか?

 では、早速、白と黄色の壁が印象的な街並をご覧ください。



  <街のメインストリート>

  <同じく反対方向>

「街のメインストリート」と記した左奥に見える塔は、巻頭の写真の「ドン・ペドロ5世広場」に
建っている市庁舎の時計台(17世紀から18世紀にかけて造られた)のようです。
 そして、広場には、市庁舎と同じような尖塔が印象的な「サンタマリア・ダ・デベサ教会」が
建っていました。



 <サンタマリア・ダ・デベサ教会>

  <教会周辺の5世広場の光景> 

 この周辺には、楽器を演奏している面白い彫刻や、ドン・ペドロ5世の銅像がありましたので、
ご覧ください。



  <演奏する彫刻> 

  <ドン・ベドロ5世像> 

 こうして、街並みを見ながら13世紀にディニス王が造ったというヴィデ城やシナゴーグに向
かいました。
 まず、ヴィデ城(Castle of Catelo de Vide)に向かいましたが、
その間の街並みや城壁などをご覧ください。



 <白と黄色の街並>

  <城の入口付近の光景>

  <城の入口付近>

  <城から見える街の光景> 

 左上の「白と黄色の街並」は、ドン・ペドロ5世広場から10分ぐらい歩いたところの様子です
が、この街全体がこの二つの色に統一されているようでした。
 そして城が近づいてきますと、右上のように街を見下ろす城壁が目に入ってきました。
 やがて、植栽が綺麗にカットされた城の入口が、見えてきて門を潜りますと、街を一望できる
場所があるはず?なのですが、城跡の写真などを撮影していませんでした。(残念だな!)


 ところが、これは小生の勘違いで城壁を見ながら「ノッサ・セニョーラ・アレグリア教会」
ある北西に向かったようです。
 教会の周りには、ドン・ペドロ5世広場までに広がっていた白と黄色の街並と同じ街並みがあ
り、ノッサ・セニョーラ・アレグリア教会が静かに佇んでいました。



  <白と黄色の街並>

  <城壁の横を歩くと> 

<ノッサ・セニョーラ・アレグリア教会> 

  <同教会の城壁側>

 このノッサ・セニョーラ・アレグリア教会の表示は、「lgveja de nossa S
ra. ou lgveja do Castelo」となっていましたので、直訳すると、「
ノッサ セニョーラ ダ アレグリアの教会または城の教会」となります。
 なお、ノッサとは「うわー」、セニョーラとは「夫人」、アレグリアとは「喜び」だそうです
から、夫人が驚くほど喜ぶ教会なのでしょうか?

 さて、ここから高い城壁が印象的な通りを歩いてカステロ・デ・ヴィデ城に向かいました。



 <城壁の間を歩く>  

 <カステロ・デ・ヴィデ城の入口> 

 <オレンジ色の美しい街並>

 カステロ・デ・ヴィデ城からは、白壁にオレンジ色の屋根の家が並ぶ美しい街の様子を見るこ
とができました。
 この後は、この街のもう一つの見どころ「ユダヤ人地区(Judiaria)」の「シナゴー
グ(Sinagoga)」などを見ることにしました。



  <ユダヤ人地区などの案内看板> 

  <ユダヤ人地区> 

 <シナゴーグ(左)が建っている小路>

 <ユダヤ人地区から見える街並み>

 この4枚の写真は、いずれもかみさんが撮影したもので、ユダヤ人地区の勘所を押さえたとて
も良い写真だと思います。
 このうち、左上の案内看板ですが、辞書によると、「Judiaris」は「ユダヤ人地区」
、「Sinagoga」は「シナゴーグ(ユダヤ教会)」、「Fonte da Vila」は
「フォンテダ村」という意味だそうです。
 なお、最後のフォンテダ村(フォンテ ダ ヴィラ)は、ユダヤ人地区の坂道を下っていくと
、噴水がある広場に出るのですが、この噴水のことを指しているとのことです。

 以上でユダヤ人地区の記事を終了しますが、と
いいたいところですが、大切なことを忘れていま
した。
 そうです!シナゴーグを忘れていました。とこ
ろが、シナゴーグ全体を撮影したものがないので
す。
 辛うじて、左上の写真の右の建物がシナゴーグ
であることが分かります。
 また、右の写真は、その建物の手前に表示され
ているシナゴーグの印と文字(SINAGOGA
 //MUSEU)を書いた看板です。
 

  <シナゴーグ(ユダヤ教会)>




 こうして、ユダヤ人地区の見学が終わりますと、このページの巻頭写真にあるドン・ペドロ5
世広場に戻り、バスに乗ってエヴォラの「ポサーダ・ドス・ロイオス」という国営ホテルに向かいました。



 <赤ワイン> 

 <チキンパイ>
 ホテルでは「うれしいワイン放題!」の夕食
が待っていました。

 メニューは「チキンパイ」、「ポークシチュ
ー(赤ワイン煮込み)、アーモンドケーキ、コ
ーヒーORエスプレッソです。

 味?牛肉とジャガイモのすり身(ポーク)は
「まあまあ}かな、前菜の揚げ物と野菜(チキ
ンパイ)は「美味」、ケーキは「甘い!」ので
お好きな人にはよいかも。
 

 <ポークシチュー> 

<アーモンドケーキ>



 最後に今日の観光を総括すれば、添乗員のNさんの言葉「雨にも負けず、風邪にも負けず、笑
い声の絶えない笑顔で楽しく観光した。」ということになるようですが、小生の気持ちは、「雨
にも風にも負けた!」でした。









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 このページ(No.6)は、アレンテージ地方のカステロ・デ・ヴィデを掲載しています。