連泊で巡るポルトガルの美しい町や村12日間の旅
 <2013.3.5(火)~3.16(木)・ユーラシア旅行社>

    ~3月8日(金)旅行4日目   曇り時々晴れ~ 






                                  No.8


 ◆ エストレマドゥーラとリバテージョ地方の「聖母マリアの奇跡が起こっ
  た聖地」ファティマ
   (Fatima)


 美味しく昼食をいただいて、13時45分にはバスで「聖母マリアの奇跡が起こった聖地」と
いわれるファティマに向かいました。
 約40分で到着しましたが、その間、「何か面白いものが見えないか?」と流れる景色を眺め
ていました。
 ファティマに近づいてきますと、高いビルのような建物などが見えてきました。お天気も晴れ
模様ですから好都合です。



  《ファティマの建物》

  《ファティマにも水管橋》

 何も知らないものですから、「ファティマの建物」と表現してしまいましたが、私たちがこの
町を訪問したのは、このパジリカを見学するためだったのです。


【ファティマちょこっとガイド】

 ファティマ(Fatima)は、ポルトガルのサンタレン県、面積79.29㎡、人口約10
人、リスボンからの距離123㎞、中央部に位置している。
 元々は小さな農村の町であったが、1917年に起こったとされる「ファティマの聖母の出現
」と呼ばれる宗教的幻視によって、現在はローマ・カトリックの巡礼者を中心に国際的な巡礼地
として知られている。




 ということですが、「ファティマの聖母の出現」ということが理解できないといけないようで
す。
 ウキペディアによると、「ファティマの聖母」は、ポルトガルの小さな町ファティマで起きた
カトリック教会が公認している聖母の出現の一つだそうです。
 でも、これでは、話が見えてきませんよね。
 ウキペディアの説明を読んでいますと、長くなってしまいますので、私たちが訪問したバシリ
カの写真を見ながら説明します。


 《大広場とバシリカの右方向》

  《ファティマのバシリカ》 

 バシリカの前にある広場には、バシリカの反対側に近代的な建物の「聖三位一体教会」があり
ますが、私たちは訪問しませんでした。

 ところで、バシリカには二つの意味があるそうです。
 一つ目は、建築の平面形式のひとつのことだそうです。中央の身廊の二辺ないしはそれ以上の
辺を側廊によって取り囲むものをいい、身廊と側廊は列柱によって分けられ、バシリカ式、長堂
式ともいうそうです。
 二つ目は、ローマ教皇の発行した教皇小書簡により、一般の教会堂より上位にあることを認め
られた教会堂のことだそうです。
 ファティマのバシリカは、二つ目の意味もあると思いますので「ファテマの大聖堂」といって
も良いのかも知れませんね。

 ここで、ファティマの奇跡とでもいうべき1916年の春ころ起こった平和の天使である若者
の出現と、それに続く1917年5月13日の聖母マリアの出現について話しておきましょう。

 まず、1916年の春頃、ファティマに住むルシア・ドス・サントス、フランシスコ・マルト
、ジャシンタ・マルトという子供3人の前に平和の天使とする14~15歳くらいの若者が現れ
、祈りの言葉と額が地につくように身をかがめる祈り方を教えた、そうです。

 そして、1917年5月13日、子供3人の前に聖母マリアが現れて毎月13日に同じ場所へ
会いに来るように(と)言った、そうです。子供たちは様々な妨害にあいながらも、聖母に会い
続けて様々なメッセージを託されとそうです。
 そのメッセージですが、大きく分けて3つあったそうです。
 でも、その話をしますと、長くなりますので、バシリカ(ファティマ大聖堂)の中をご覧くだ
さい。


  《バシリカの内部》 

  《正面祭壇には聖母マリア像》

 明るく美しい教会堂ですね。祭壇の横には、フランシスコとジャシンタ兄弟の墓があるはずですが、よく分かりませんでした。
 続いて身廊の左右にあるステンドグラスと天井の彫刻をご覧ください。



《身廊の左右にあるステンドグラス》 

  《天井の聖母マリアなどの彫刻》

 さて、3つのメッセージの話ですが、ウキペディによれば次の通りです。

 1 死後の地獄の実在
   多くの人々が罪な生活、傾向によって死後、地獄へ導かれている。肉欲や傲慢など現世的
  な罪から回心(神の道に心を向ける)しないままでいることにより、人は死後、永遠の地獄
  へと行く。具体的に、聖母はこの3人に7月13日、地獄のビジョンを見せ、彼らはありの
  ままの光景に戦慄した。地獄は神話ではなく実在し、そこは全ての人が死後行く可能性のあ
  るところで、入ったが最後、二度と出ることはできない。

 2 大戦争の終焉と勃発
   第一次世界大戦は、間もなく終わること。しかし、人々が生活を改め罪を悔い改めないな
  ら、さらに大きな戦争が起き、沢山の人が死に、そしてその多くが地獄に落ちてしまうこと
  。その前兆として、ヨーロッパに不思議な光が見えるだろう、ということ。

 3 秘密 
   聖母マリアは、1960年になったら公開するように、それまでは秘密に、とルシアに厳
  命した。
   その内容は「ファティマ第三の秘密」と呼ばれ、ルシアを通じて教皇庁に伝えられたが、
  1960年が過ぎても教皇庁は公開せず、2000年になってから発表に踏み切った。
   教皇庁によれば、教皇暗殺の危機だとされる。ヨハネパウロ二世は、ファティマ出現記念
  日である1981年5月13日に発生した事件を東欧の政権による暗殺未遂と発表している
  が、後述した理由から疑問視する意見もある。

 というようにウキペディアでは説明していますが、キリスト教にとっては凄い事件なのでしょうね。
 このほかに「聖母から教皇への要望」や、「聖母からの大きな奇跡」などの説明があり、さらに、「5月13日の聖母とルシアの会話」などが掲載されていますので、興味がある方は、ウキペディアの「ファティマの聖母」というページをご覧ください。

 ということで、ファティマを15時ジャストくらいに「さようなら」して次の訪問地バターリャに向かいました。


 ◆ エストレマドゥーラとリバテージョ地方の町バターリャ(聖母マリア
  に捧げられた世界遺産の修道院)
   (Batalha)


 ファティマからバターリャまでは、地図で見ると西に20㎞くらいでしょうか?15時25分
に修道院が見えてきました。


【バターリャちょこっとガイド】 

  バターリャ(Batalha)は、ポルトガル語で「戦い」という意味である。
 バターリャ近郊のアルジュバロートで、1385年の8月に王位を狙って攻め入ってきたスペ
インのカスティーリャ軍をジョアン1世率いるポルトガル軍が打ち破った。
 これは、スペインに対してポルトガルの独立を守る歴史に残る戦いだった。
 聖母マリアに感謝を捧げるためジョアン1世が修道院の建立に着手したは1388年のこと。

 バターリャは、修道院の周りにみやげ物屋やレストランがあるだけの小さな町なので、198
3年に世界遺産に登録された「勝利の聖母マリア修道院」が見どころとなっている。





  《バターリャ修道院》 

 《ゴシック・マヌエル様式》

 「ちょこっとガイド」で触れたように、1388年に建設が始まったこの修道院は、「アフォ
ンソ・ドミンゲス」をはじめとする何人かの建築家により16世紀初頭まで引き継がれた、とい
います。
 建物は、ご覧のように黄土色を基調とした美しいもので、ポルトガルを代表する「ゴシック・
マヌエル様式の建築」だそうです。


  ≪修道院前のジョアン1世の騎馬像≫
 ジョアン1世は、「ちょこっとガイド」で触れた
スペインとの戦いでポルトガルを勝利に導いた英
雄で、戦勝を記念してこの地バターリャに「勝利
の聖母マリア修道院」を建設したのです。


 さて、いよいよ修道院の中ですが、これが素晴
らしいものでしたネ。
 でも、勉強不足で説明できないところもありま
すので、期待しないでくださいませ!
 まず、左下の写真で茶色の入口に向かって歩い
ている様子が写っていますが、この門が素晴ら
しい彫刻で彩られているのです。

 《バターリャ修道院の入口》

 《アーチ・ヴォールトの上部》

  《同じく下部》

 西口に面しているのこの修道院の入口は、「アーチ・ヴォールト」という形をとっているそう
です。
 その中の丸い三角形の手前に見える円形状のもの(6列)のものには、78体の聖像が飾られ
ていて、良く見えませんが、旧約聖書に登場している王、天使、預言者、聖者が並んでいるので
す。
 さらに、アーチ・ヴォールトから地面へとつながる部分の両脇には、使徒と鎖で縛られた悪魔
の彫像があります。
 そんなことを説明されても、分からない?それは、失礼しました。
 次に、右上の写真をご覧ください。この「アーチ・ヴォールトの上部」の写真を見ると、三角
形のような形をした部分が中央に見えますが、これはキリストの戴冠の様子を描いているそうで
す。



 《左側に彫られた使徒》 

  《右側に彫られた使徒》 

 写真が出てくる順番が逆だ?!というお叱りをいただきそうですね。でも、いかがですか?使
徒などの彫刻は精巧に作られていて色合いも良く、本当に美しい!ものですよね。


 さて、修道院の中ですが、ここは、撮影禁止ではなかったのですが、良いものが撮影できなか
ったので、省略します!
 といいたいところですが、折角、中に入れたのですから、ご覧いただきましょう!
 なお、どういうところなのか説明できないものもあります。まず、中に入ってすぐに見えるは
、修道院の中にある教会の身廊です。



  《教会の身廊》 

  《身廊の天井》 

 身廊の高さは32mあり、均衡を保つために幅が22mと狭くなっています。現在ある高さに
まで設計・建築したのは、著名な6人の建築家の二人目フュゲットです。身廊には、彫像や装物
が少ないため、落ち着いた印象を与えています。

 さて、右上の写真にある身廊の天井は、我ながら良いものが撮影できたと内心喜んでいます。
 といいますのも、ウキペディアにその解説があるにもかかわらず、このように鮮明に写した写
真が見当たらないからです。
 その解説ですが、「天井は、複数の支柱と装飾されたキーストンで構成されたリブ・ヴォール
トである。光は、10枚あるステンドグラスから射し込まれてくる。」となっています。

 でも、「キーストン」、「リブ・ヴォールト」というのは、どういう意味でしょうか?
 キーストーンは、ヴォールトまたはアーチの頂上部分にある建築要素で、要石、楔石、せりも
ち石などとも呼び、また、リブ・ヴォールトは、骨の一種(肋骨)によって?かまぼこ型のアー
チを平行に押し出した形状のようです。
 そうすると、写真では、8本のリブ(骨組み)で支えられたかまぼこ型のアーチ(ヴォールト
)の中央にある丸い部分がキーストーンということになるのでしょうか?(以上は、小生の勝手
な解釈ですので、信用しないでください。)

 さて、修道院の南面にある教会の奥には、聖母マリアとキリストの生涯を描いたステンドグラ
スがあるはずですが・・・


 《創設者の礼拝堂?》

  《同じく礼拝堂》

 でも、上の写真は、入口をまっすぐ進んだ教会の奥のステンドグラスではなく、入り口の南(
右側)にある
「創設者の礼拝堂」のようです。
 創設者の礼拝堂(ポルトガル語Capela do Fandador)は、1426年から
1434年にかけて、ジョアン1世の指示のもとフュゲットが建設したポルトガル最初のパンテオン(神々を祀る神殿?)です。
 礼拝堂の中央にはジョアン1世と王妃の棺が置かれているほか、その南側にはペドロ王子、エ
ンリケ航海王子、フェスで客死したフェルナンド王子の墓があります。その意味では、ここは、
墓所といった方良いのかも知れません。残念ながら、棺も墓も撮影していませんでした。


      ≪創始者の礼拝堂の天井≫  さて、次は、順番からいくと入り口の左側に
ある「ジョアン一世の回廊」に向かうはずですが・・・

 どうも創始者の創始者の礼拝堂のことが気に
なって前に進めません。

 左の写真が次の説明の「3つの格間」なのか
「八角形の空間」なのか分かりませんが、掲載
してみました。
 次の説明?
 それは、「礼拝堂は、3つの格間と中央の8
本の支柱によって控え壁が設けられた八角形の
空間に分けられる。」というものです。
 左写真の上部にステンドグラスが見えますが
、その下の壁は、八角形になっていて、空間を
形成しているのかも知れませんね。
  

 さて、お待ちかねのジョアン一世の回廊ですが、ここを単に「王の回廊」といっている資料も
あり、どのような名称が正しいのかよく理解できないところです。
 ここの代表的な見所は、「レース細工のような繊細な挾間飾り」だといいますが、残念ながら、これを大きく撮影した写真がありません。
 仕方ありませんので、回廊と緑の中庭から見える光景を掲載しますので、レース細工を探してみてください。



  ≪回廊の中庭≫ 

  ≪美しいジョアン一世の回廊≫
  ジョアン一世の回廊は、1386年に建設が始まり、1515年に完成したそうです。
 「初代建築家アフォンソ・ドミンゲスによって
造られたゴシック様式の簡素な回廊に、約100
年後にリスボンのジェロニモス修道院を手がけた
ボイタックがマヌエル様式の装飾を施し、見事な
調和を生み出している。(地球の歩き方)」と説
明していますが、上の写真でいいますと、どこの
部分がこの説明文にあたるのでしょうか?


 ところで、ウイキペディアなどによりますと、
王の回廊(Ctaustro Real)は、「もともとは、バ
ターリャ修道院に建設計画になかったものである
。フェルニヤーオ・ド・エボラが1448年から
1477年にかけて建設した。王の回廊に残って
いる彫刻は、マヌエル様式とゴシック様式を上手
に融合させており、第2の建築家であるフュゲッ
トが最初に施し、後にマテウス・フェルナンデス
らが追加している。」と説明しています。

  ≪コウノトリの塔≫

 建築した年度や建築家も異なっていますが、こうなると「ジョアン1世の回廊」と「王の回廊」は、異なる建築物ではないのか?という疑問が沸きますよね!?


  ≪王の回廊から見える中庭≫

  ≪黄土色の壁と中庭の緑≫

 しかし、この修道院には、「回廊」は2つしかなく、もう一つは、ジョアン1世の回廊の北側
にある「アルフォンソ5世の回廊(Claustro de D.Afonso V)」ですから、両者の説明の回廊は
同じものだと考えざるを得ません。
 それはそれとして、修道院の古い黄土色の壁と中庭の緑に照らし出された回廊を囲むレース細工のような繊細な彫り物が何ともいえない美しさです。
 また、回廊からは、この中庭のほか「コウノトリの塔」といわれる建物が見えていました。

 なお、アルフォンソ5世の回廊は、15世紀の半ばにフェルニヤーオ・ド・エボラが建設した
そうです。(ウキペディア)
 私たちは、残念ながら、アルフォンソ5世の回廊には行かなかったようです。「そんなはずは
ない!」と小生の心がささやいていますが、記憶がないばかりか、写真が一枚も残っていないの
です。

 続いて、王の回廊の東側にある「参事会室(Sala do Capitulo)」に向かいました。


  ≪兵士の護衛?≫

  ≪参事会室>

 ここはの見所は、「柱が一本もない」という点と写真にあるように兵士の姿が見られることです。
 そして、奥には、キリストの受難の場面を表した16世紀のステンドグラスがあることです。

 なぜ、ここに兵士がいるのか不思議だったのですが、第一次世界大戦とアフリカの植民地争い
で命を落とした無名戦士の墓が置かれているからだそうです。この修道院が戦争を契機に建設さ
れたことから、ここに無名戦士の墓が置かれるようになったのかも知れませんね。
 なお、建設当時ここは「集会室」という使い方をしていたのではないでしょうか?

 ここの見学が終わりますと、アフォンソ5世の回廊から外に出て、西の入り口にある「教会」
の奥に位置する「未完の礼拝堂」に向かいました。
 でも、西口ではなく、未完の礼拝堂に行くことができる東口の入り口がありました。
 修道院の裏側のような場所でしたが、まず、そこから見えた光景をご覧ください。



  ≪修道院の東側の光景≫ 

   ≪同じく東側、左方向の光景≫

 黄土色というのでしょうか?黄色と黒が混ざったような色の建物ですが、歴史を感じさせる建物ですね。
 私たちは、ここから左写真の中央付近の見える入り口から最後の見所「未完の礼拝堂」に向かいました。


 未完の礼拝堂(Capelas Imperfeitas)は、ジョアン1世の息子ドゥアルテ1世によって143
7年に建設が始まり、没後は後のマヌエル1世に引き継がれて100年ほど工事が続けられたが、ついに未完に終わった(地球の歩き方)といいます。
 そして、もともとフュゲットが設計したものであるが、後にマテウス・フェルナンデス設計のものが現存の礼拝堂の主な姿となっている(ウキペディア)そうです。


  ≪未完の礼拝堂の入り口付近≫ 

   ≪未完の礼拝堂≫

 何のためにこの礼拝堂を造ったのか?ですが、ドゥアルテ1世と彼の子孫を埋葬するための霊
廟だそうです。
 礼拝堂の入り口は、15mの高さになっていて、元々はゴシック建築の手法が用いられていたが、マテウス・フェルナンデスの手によって、マヌエル様式の傑作へと変わったのです。
 マヌエル様式の彫刻は、天球、翼の天使、ロープ、円などの形をしたアーチといったもので表現されています。

 などと説明していますが、幾重にも重なるアーチと彫刻が素晴らしいものでした。
 ところで、なぜ、未完の礼拝堂!というのでしょうか?
 言葉通り完成していないからだと思いますが、さらに疑問が沸きます。
 それは、完成しなかった理由です。地球の歩き方によれば、「設計上のミス」と「建築家がリ
スボンに行ってしまった」という説があるそうです。
 また、我らが添乗員さんの説は、「1502年着工のサン・ジェロニモス修道院(リスボン、マヌエル様式の最高傑作)に大航海時代の富をつぎ込んだため、未完で終わってしまった。」というもので、建築家がリスボンに行ってしまった、という説を裏付ける話です。

 それにしても、右写真のように、青空に建物が美しいコントラスト描いていますが、を未完だから天井がないのでしょうか?

 次に、マヌエル様式の精巧な彫刻をご覧いただきましょう。


  ≪マヌエル様式の彫刻≫ 

  ≪これは亀でしょうか?≫ 

 バターリャの見学が終了しますと、北に約180㎞離れた次の宿泊地「ポルト」に向かいまし
た。
 バターリャを16時30分ぐらいの出発でした18時過ぎにトイレ休憩をして、有名なアーチ
の鉄橋「ドン・ルイス1世橋」などの光景を見ながら18時50分頃、無事、メルキュール・チェントロ(MERCURE PORTO CENTRO)というホテルに到着しました。


  ≪トイレ休憩の売店≫ 

  ≪遠方にドン・ルイス1世橋≫ 

 この橋の何が有名か?見えている川は、ドウロ川ですが、左奥に明るく光っているお城のよう
な建物が見えますが、ドン・ルイス1世橋は、そのあたりに架かっています。
 この橋は、1881年から1886年の間に建設されたもので、幅員8mの2階建てで、長さ
が上層395m、下層174mになっています。
 現在は、上層が歩行者とメトロ用、下層が自動車用と歩行者用になっていますが、メトロ(ポ
ルトで最も大きい病院と役所を結ぶ地下鉄)が2009年9月に開業するまでは、上層も道路用
になっていたそうです。



 さて、19時30分に集合してホテルでの夕
食ですが、好きなものをいただけるバイキング
で、ワインは無料でした。でも、好きなものと
いっても、肉類はありませんし、魚料理は白身
魚のみでしたから「ちょっとがっかり」したの
ですが、味は悪くありませんでした。
 
 
  ≪スープ≫

  ≪野菜が豊富≫ 
 ホテルの建物や部屋の様子が分からない?
 その評価などは、明日の朝のページでお伝えします。

 この日は、この後も観光があったのです。
 ポルトガルらしい青のアズレージョがあるというのです。
 明日の出発が6時30分と早いものですから、躊躇したのですが、好奇心には勝てませんでし
た。
 もちろん、希望者が参加するのですが、私たちが宿泊したメルキュール・ポルト・セントロホ
テルの東隣にある「サン・ベント」という駅に向かいました。
 駅は、20世紀初め修道院の跡地に建てられ、ホールの壁を飾るアズレージョは、ジョルジェ
・コラコによって1930年に制作されたもので、セウタ攻略やジョアン1世のポルト入場など
、ポルトにまつわる歴史的な出来事が描かれているそうです。



  ≪ポルトの夜を歩く≫

  ≪サン・ベント駅のアズレージョ≫ 

  ≪駅の壁に描かれたアズレージョ≫

  ≪駅のプラットホーム≫

 今日の観光も見所が多く、充実したものでしたが、明日がモーニングコール5時30分ですから忙しすぎる?
 まぁ、折角ポルトガルまできたのですから、できるだけ多くのものを見学したいので、「大忙し!」歓迎ですね。






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 このページ(No.8)は、エストレマドゥーラ・リバテージョ地方のファティマ、バターリャを掲載しています。