ルーマニア・ブルガリア大周遊17日間の旅行記
 <2012.10.16(火)~11.1(木) (株)ワールド航空サービス>

       ~旅行9日目・10月24日(水)  曇り後晴れ~ 




                                 No.16

 今日の昼食は、シナイアのレストランだと勝手に思っていたのですが、次の訪問地であるドラキュラのモデルとなったブラン城近くのレストランです。
 でも、シナイヤ僧院を出発したのが10時過ぎくらいでしたので、シナイアから約30㎞のブラン城到着後すぐに昼食!なんてありえない話です。
 ということで、まず、ブラン城を先に見学したのですが、到着時刻は11時を少し回っていたでしょうか?
 シナイアからブラン城にかけて見えた光景と雑多な店が並ぶブラン城の入口付近をご覧いただきます。



 <ブラン城手前の光景>

  <ブラン城の入口付近>
 ブラン城は、「吸血鬼ドラキュラの居城のモデルとなった城」で、ブラショフから南西約30㎞などなっていますが、これでは、その位置関係が分かりませんね。
 地図があれば良いのですが、ブルガリアとの国境方面が南と考えて頂いて、ブラン城は、南のシナイアと北のブラショフの間(西寄り)のプチェジュ山麓のブラン村にある城といえます。

 「この城は、1377年、ドイツ商人がワラキア平原からブラショフに入ってくるオスマン朝軍をいち早く発見するために築いたとされる。14世紀末には、ワラキア公ヴラド1世がここを居城とした。ドラキュラのモデル、ヴラド・ツェペシュ(串刺し公)の祖父にあたる。現在はルーマニア国王フェルナンド1世の末裔に返還されたが、博物館として解放されており、王の執務室などたくさんの部屋が見学可能。(地球の歩き方より)」

 
ということは、テレビで何度も見たあのドラキュラは3代目ということになります。この3代目の王様は、人間を串刺しにする刑を実施したそうですが、こういう残虐な話を聞きますと、この人がドラキュラのモデルになったのもやむを得ないのでしょうね。

 この城に関するTさんのメモにも面白い話が載っていましたので、引用しておきます。
 
「実はドラキュラのモデルとなったヴラド・ツェペシュはここに住んだ記録はありませんが、彼のおじいさんが建て、ルーマニア王国の2番目の王の奥(様)マリアが気に入り、改築し住んでた場所です。」


 さて、右上の写真の門から中に入りますと、坂道になっている城への進入路があり、辺りは鬱蒼と茂った黄葉の樹木と瓦葺きのように見える苔むした屋根が印象的な平屋の建物などが目に飛び込んできます。
 左写真は、城の構内を説明した看板ですが、何でも撮影していますね。
 でも、このお城がどういう形になっているのか、全体像が分かる良い写真が撮れませんでした。(言い訳するな!)

 <敷地内の黄葉>

 <瓦葺き屋根の建物>
 
 坂道を登り切りますと、右方向にお城があり、急傾斜の階段を登って城の中に入りました。
 中の様子?最上階から撮影したのか不明ですが、お城の周りの光景と中がどうなっているのか、いくつか写真をご覧いただきましょう。

 
 子供も展示品?そんなことはありません!が、なるほど!博物館でしたね。
 お城の中をもっと見たいと思いますが、帰りの様子も記事にしたい光景がありますので、中の様子は、このHPの更新の時にでも差し替えたりしてご覧いただきましょうネ。(いつのことになるのやら?!)


 
 左写真は、お城の出口付近で黄色の紅葉を楽しむ先生と子供たちですが、右写真は、お城のトンガリ部分が写っている貴重?なもの!と考えて小生は撮影したはずです。
 ところが、この2枚の写真は関連があるのではないか?と思いはじめました。
 右写真の黒い屋根の上に黄色い葉が見えていますが、この
美しい黄色の葉が落ちた場所が左の写真の場所だったのではないかと!

 さて、こうしてドラキュラのモデルとなったお城を見学して門を出ますと、最初の写真で申し上げましたように、この付近には、串刺し公の似顔絵がプリントされたシャツなど売る露天が並んでいて、大勢の人で賑わっていました。もちろん、我が家も買い物を楽しみましたよ。
 何を買ったのか?かみさんに聞いてください。

 次は昼食です。場所は、お城が見えるレストランCASA DI BRANです。


 最初は「トランスバニア風スープ」、メインは2番目の「名物サマーレ サワークリーム添え」、3番目は「パパナッツ サワークリームとジャムを添えて」 となっています。
 小生のコメントは、トランスバニア風スープを「コーンスープと間違っているようで・・・コーンではない!イマイチ」と評しています。
 また、名物サマーレ サワークリーム添えは、「ママリガと肉のキャベツ包み」とメモし、ママリガの味を「うーん」と評していますので、イマイチということですね。
 最後のパパナッツは、「デザートは小麦粉系?」とメモしてあり、味の評価はありませんでした。 

 昼食が終わりますと、中世の町並みを残す美しい古都ブラショフに向かいます。聖ニコラエ教会黒の教会などを見学します。
 ブラン城からブラショフまでは直線で30㎞弱ですから、40分ぐらいで到着できると思いますが、町の中心部にあるスファトゥルイ広場が見えてきたのは、14時30分ぐらいだったでしょうか?


 <バスの中からブラショフ市街が!>

 スファトゥルイ広場の旧市庁舎>

 まず、ここから徒歩で15分ほど離れたスケイ地区に建つルーマニア正教の聖ニコラエ教会の見学です。
 スファトゥルイ広場ではバスを降りずに、教会に向かいましたが、教会からは、スファトゥルイ広場や黒の教会がある中心市街地まで歩いて、街を散策しました。


 左の写真にありますように大きな広場の先に聖ニコラエ教会が見えてきました。右写真は、入口の門ですが、どの建物が聖ニコラエ教会なのか分かりにくいかも知れませんね。
 全体像が入るように縦に撮影した写真がありますので、ご覧ください。

 聖ニコラエ教会は、街の中心から徒歩で15分ほど離れたスケイ地区にたつルーマニア正教の教会です。
 スケイ地区とは、ブラショフがドイツ移民によって建設された当時、先住ルーマニア人たちが移住を余儀なくされて移った地域だそうです。
 中心市街地とはスケイ門(現存)によって隔てられていて、ルーマニア人は、特別な許可がない限り街の中には入れなかったそうです。
 教会は14世紀に建った小さな木造建築が始まりだそうですが、ここに移住させられたルーマニアの人々の心のよりどころだったのではないしょうか?

  この教会の敷地には、お墓もありましたが、その様子は遠慮申し上げたいと思います。
 こうして、教会の見学が終わりましたので、旧市街地に歩いて向かいました。
 その間、中心市街地との境となっていたスケイ門などこの美しい街を散策したのです。


   

 左写真がスケイ門で、右写真が門の左方向に見えた教会?などの美しい光景です。
 ここを過ぎますと、旧市街の中心地にあるスファトゥルイ広場の歴史博物館や黒の教会を見学します。
 ブラショフの代表的な建物は、この
黒の教会歴史博物館(旧市庁舎)であるということのようですが、歴史博物館の方は、広場での自由時間を利用して外観を楽しんだのです。
 ということで、まず、黒の教会をご覧いただきましょう。なぜ「黒」という名前がついているのか?については、写真の左側で説明します。

「黒の教会」は、14世紀後半から15世紀初頭に約80年をかけて建設されたトランシルヴァニア最大の後期ゴシック教会だそうです。
 街の中心にそびえ立つ高さ65㍍の建物ですから目立つのですが、ルーマニア正教会ではなく、カトリック教会だそうです。
 なぜ、
「黒」という名前か?ですが、「地球の歩き方」では、「1689年にハプスブルク軍の攻撃に遭い、外壁が黒焦げなったことから、この名がある。」と解説しています。
 ところが、現地で受けた説明では、
「地震による周辺の火災(の煤)で黒くなった」という話でした。
 どちらが正しいのか?小生には分かりませんが、Tさんの話では、どちらも間違ってはいないようですから、両者の原因が相俟って、より黒光りしたということでしょうか?
 なお、内部には、ルーマニア最大級のパイプオルガン(4000本のパイプと4つの銀盤1839年制作)やトルコのアナトリア産の絨毯がある、といいますが、あまり印象に残っていません。
  
 

 この教会に到着した時刻が15時20分で見学が終了したのが15時50分ぐらいで、その後は歴史博物館(旧市庁舎)があるスファトゥルイ広場に行き、地下の有料トイレ(1レイ)で用を足してから広場周辺を16時20分まで散策しました。この広場には、観光客でしょうか?地元の人々でしょうか?多くの人々が集まり、賑わっていました。
 私達は、この自由時間に左下写真の歴史博物館右奥の通路に「何かありそうだ!」と散策したのですが・・・
 この後は、この日の宿泊地シギショアラに向かいました。そして、ホテルで夕食です。

 
 <歴史博物館(旧市庁舎)>
 
 <広場周辺の様子>

 ブラショフからシギショアラまでは、直線でも100㎞以上あるようですから到着までに2時間ぐらいはかかりそうです。
 その間、「ルーマニア中部の風景を楽しみたいな!」などと考えていましたら、Tさんがルーマニアで流行っているという
ハンガリー風揚げパン(キルトシュコルチ)を配っていただきました。
 丸い筒状の薄手のパンで、甘さ控えめで結構なお味でしたが、帰国してからある番組を見ていましたら(「旅サラダ(土曜日8時TBS)」のルーマニアの旅だったかな?)、これを食べている様子を放映していました。そのお陰で、どんな形のものだったか思い出しました。
 Tさん!ごちそうさまでした。
 シギショアラには、予定通り18時30分に到着しましたが、その間の景色などは「これ!」といったものはありませんでした。
 ところが、シギショアラに着いてから面白いことが待っていました。
 シギショアラの旧市街は、高台の城壁に囲まれていて、大型の観光バスが入れないのです。



 <シギショアラの夕日>

 <旧市街の様子>

 バスが停車した通りの名前は分かりませんが、途中、右側の木々にの間に新市街地のような街並が見えましたので、駅や正教会がその方向にあるのだと思います。
 しばらく走りますと、左方向に坂道があるところでバスが停車しました。
 ここからは、先ほど申し上げたようにバスが通行できないためホテルまで歩いてください、という案内です。
 この道路は、片側1車線で結構な勾配があり、ときどき、乗用車が行き来していました。
 重たいスーツケース?約10分歩くのですから、自分で持って行くのは無理ですので、ホテルの方が車で運んでくれました。
 でも、こういう思いがけないことが心に強く残るのですから、旅の楽しさは、意外なところに潜んでいるものですね。
 こうして、道路を歩き始めたのですが、やがて両側を緑に覆われた直線の坂道が右方向に曲がる先に建物(城壁?)を潜る所が見えてきました。
 そこをしばらく行くと、左側に広場が見えてきて、交差する道路を右に曲がりますと、私達が今夜お世話になるHOTEL Sighisoara(シギショアラ)に到着です。
 左の写真は、
「夕闇が迫るシギショアラ!」とでもいうべきシーンですが、バスを降りて見えた光景ですね。
 右の写真は、右奥に
「時計塔」が写っていますが、ホテルの近辺から撮影したものです。

 さて、ホテルに到着後、19時30分から楽しい夕食です。
 私達は、相変わらずの「のんびり夫婦」ですから時間ぎりぎりに集合したため、最後になったようで、広島県から参加されたTさんご夫婦と4人掛けのテーブルに着席しました。
 まず、飲み物ですが、小生は赤ワインを、かみさんはビールを注文しました。二人併せて20レイですからお安いですね。
 メニューは、・豆のスープと自家製ブレッド・チキンの胸肉料理・ケーキ チョコレートソースとなっています。これにコーヒー又は紅茶がついています。


 

 左写真の筒状のパンですが、これが「豆のスープと自家製ブレッド」です。小生のメモには「大きなパンにスープが入っている」とありますが、蓋の下に豆のスープが入っていたのです。珍しい食べ物ですが、味の方は「イマイチ」でした。
 次がメインのチキンの胸肉料理ですが、「鶏肉とジャガイモ」というメモ以外に記述がなく、
味の評価はありませんでした。
 次が左から3番目の「ケーキ チョコレートソース」だと思うのですが、これも「デザート チョコレート風」という記述が残っていただけでした。


 話は変わりますが、このホテルは5階建てでしょうか?エレベータがないことから2階以上は階段で部屋に行くことになりますが、添乗員のTさんが2階(でも部屋の番号は102です!)で、私達は305号室(4階です)でした。
 ということは、私達の上の階は5階(部屋の番号は400番台?)となりますが、ここにもツアー仲間の部屋が割り当てられたのでしょうか?
 4階も階段を登ることと、5階の部屋は屋根裏部屋みたいな造りになっている、ということから一悶着あったようです。
 ツアーメンバーのTさんが、この不便で暗い5階の部屋に割り当てられたのは不愉快だというような話を耳にしたのです。
 しかし、右下の写真を見れば分かりますが、本当に5階があったのでしょうか?
 また、私達の部屋も天井が斜めになっている部分があり、そこに小さい窓がある屋根裏部屋みたいな造りになっていました(左下写真)が、こういうことで文句を言ったことがない「のんびり夫婦」には驚きの事件でした。
 ホテルSighisoaraは、地球の歩き方によれば「中級」の評価ですが、「ホテルの建物は、歴史的な建物を改築したもので、趣がある。会議室の壁には500年前のフレスコ画が残っている。設備、備品が充実していて快適。」となっています。
 小生の評価は次のページでご覧いただきましょう!

 
 <斜めの天井と窓がある私達の部屋>

 <ホテルの外観:3階建て?>






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